溝口から谷を分け入り進みます。
<溝口 宮原の樂樂福神社>
心ノ侭二御尋有去トモ御后木草ヲ分ケサセ給エハ御草臥二依テ有所二御休給フ河近ク音高クカシマシク思召ハ河音留今ノ音ナシ川是也其印二石ノ印二御鏡ヲ取置給エハ石貴ク思ヒ如鏡高成今ノ鏡大明神是也其処ノ山少ノ間二宮社ヲ建御座ス権社ナレハ今ノ孝宮大明神是也。
辿り着いた所は今の日野町上菅 菅福神社である。 日吉津から溝口まではコースは想定できますが、次の音無川、鏡大明神(今の日野町上菅の菅福神社)までの長い道筋は不明です。日野川伝いに遡るのか、それとも和妙抄に記された野上の郷から矢倉峠越で今の日野町舟場に出る道(県道46号)か、手がかりは有りません。

菅福神社社伝に曰く
「母来国日野郡菅ノ郷鎮座の高宮大明神は、人皇七代孝霊天皇御旧跡の御社なり。此の大御代に皇尊に背き国民を悩ます者あり、牛鬼と云ふ。帝親征皇后細姫命幸を共にし給ふ。産月に成りて此の郷に到り給ふ。時に河の辺りに大なる石有りて是を高御座となし小菅を刈り薦 と成し御鏡を石の上に置き給ひ、姫御子御降誕福姫命(阿禮姫命)と云ふ。時に河音姦しく天皇彼の御鏡を河に沈め給ひて河伯に祈り給ふ。忽ち河音止まりぬ。其の所を名付けて音無川と云ひ、その地を産盥と云ふ。更に宮所を求め給ひ行宮を造らしめ給ふ。今の高宮社の地是なり。鏡を置かせ給へる所を鏡岩大明神と斎き奉り菅を刈らせ給ひし所を菅の里と云ふ。」と。
<新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ>
縁起は更に続きます。。
夫ヨリ山里ヲ御尋住所ヲ定彼化生ヲ尋ント思召御有未時分不成御旅之倦二ヨリ御后御産為成給即此所生山ナレハ生山ト申ス柴庵ヲ仕給故二亦柴ノ木トモ申ス御湯ヲ引ント思召ス折節彼奥ノ谷二湯湧出タリ是ヲ産湯二被成今湯ノ原是也
旅の疲れによってお后(細媛命)がお産されたところ生山(産まれた山)を「生山」(しょうやま)と名付けました。また柴で庵を設えたので「柴の木」とも云う。湯を引きたいと思えば奥山に湯が湧き出る、この地は今「湯の原」である。
菅福神社の社伝と樂樂福神社縁起とは若干違いますが気にせず次へ進みましょう。
