樂樂福大明神<その六>でお約束の「温羅伝説」。

 

肝心のテキストを紛失してしまいましてAマゾンに注文すると、なんと古書プレミア付きで定価の倍以上でした。値打ちの分かる者もいるようです。 

温羅伝説

 平成25年初版、著者・中山薫氏です。

第一章 鬼城縁起(きのじょうえんぎ) ー室町時代の温羅伝説(うらでんせつ)ー

時は七代孝霊天皇即位五年の御代のこと。後の世に「温羅(うら)」と呼ばれた鬼神のことが「吉備津彦命神社資料 文書編」に「鬼城縁起写」として収まっていると云う。

 

その現代語訳 (その頃は剛伽夜叉ーごうきゃやしゃーと呼ばれた)鬼神が日本に飛来した。(インド・堕林山から)。そして吉備の国へ飛び去り、巌谷峰(総社市奥坂・岩屋)に立て籠った。 怒ると炎を吐き、夜な夜な近くの山を焼き、投げる岩は燃える薪となり、たたくと水は油となった。昼間は終日吉備の国中をかけり飛び、民の妻子を取り喰らった。六畜を殺し、食料にした。

 

天皇は驚かれ、第一の皇子を鬼神討伐のため 、吉備の国に下された。吉備津彦命である。加夜郡生石(おいし)庄の昇龍山(吉備の中山)に城郭を構え、日々夜々戦われた。「縁起」にはその地勢を次のように書いている。

 

「西堀は三重であった。その外堀は深さ十丈(約三十メートル)、海水を掻き入れて、堰堤には流水が漂い、常に波が打ち寄せていた。」と。今でこそこの辺りは奈良、室町、江戸初期のの大規模な干拓によって児島は倉敷とともに埋め立てられ児島半島となっているが弥生の吉備時代は「吉備の穴海」と呼ばれる海であったことが伺われます。 

 

吉備の穴海

 

古代吉備の海岸線は墳丘墓、古墳の位置からも推定されています。

 

古代吉備の海岸線

 

(真壁忠彦著 古代吉備王国の謎)から。 やはり吉備津彦は吉備の津(港)の神でもあるようです。そして 守る家臣は腰に剣をおび、手に鼓を持っていた。家臣のいた山は、現在は、鼓山と言っている。昇龍山、東北に蒼い海、海の北は良質の嘉水湧き出る芳賀郷。飯盛山の名水から西に三十里のところに夜目山がある。 

 

吉備津彦命は家臣の夜目丸をこの山に派遣した。樂樂森舎人(ささもりとねり)は皇子の戦奉行であった。と語られている。 「鬼城縁起」に登場するのは吉備津彦命と樂樂彦舎人、夜目丸だけである。しかし備前一宮・吉備津彦神社の本殿を守護する家臣に夜目山主命、樂樂与理彦命も祀られている。吉備国126の神社にはまだ多くの神々の由緒が残されている。

 吉備津彦命軍団と温羅こと剛伽夜叉賊との戦いの顛末はのちの機会に譲るとして次は吉備津彦命の足跡巡りを整理しておきましょう。