わが菩提寺龍福寺が火災に遭ったのが文久三年(1863)。


「文久三癸亥孟夏諸堂伽藍悉皆遇類火之難焼失・・・

・・・今歳乙丑孟夏撰吉辰敦請諸山之耆年以修遷佛之法供養・・」

         干時元治乙丑龍集四月十有余日

         現住五世 透海 謹誌

棟札を読んでみると2年で復旧したようです。孟夏とは四月のことぢゃよね。

完成祝賀の法要は乙丑とありますので年は慶応元年(1865)に移っています。
(4月7日改元ですからね。)



火災の難を逃れたものは脇立の達磨大師と韋駄天の像ぐらいで、ご本尊さんも焼失してしまったようです。 昨日の記事といいますかワタシの備忘録で載せた明治のご本尊勧請の事、気になっていたのはこの額の画工さまです。


画工の印

端っこの印の字がやっとわかりました。画工の印。

右側 上(白)には金生山印、下(赤)に道林の印

左側 上(赤)には茶呑居士、下(白)に永翁の印

奉額


合作なのでしょうか?右側道林さんは近くにある金生山永福寺の十五世様。

左側の永翁さんとは・・・その後地獄極楽図を描いた画工その人でした。


地獄極楽図


蜷川義信(永翁)ネットで検索してもヒットしませんが大作です。

時に再建から25年、やっと仏様を島根半島と湯梨浜町からお迎えできたのが明治二十三年から。その後も数年かけて仏具、宝器、経本を備えて絵図が完成したのはまだまだ先のこと でしたとさ(貧乏寺ですから)。

画工蜷川氏は備後国、小奴可の方らしい。備後のお寺巡りが再開しそうです♪