師走に入って始まったN林道組合の伐採作業

 

2025年分いよいよ終了となります。

間伐 3ヘクタール、皆伐 1ヘクタール 計4ha.

土曜、日曜も働き詰めの若いキコリ集団ですが

作業期間は近年はこんなものですね。約1ヶ月!!

 

(最後の確認に上がります)

 

皆伐1ヘクタールは来年の新殖作業のために

枝葉も含めて山に残材を一切残さないことがミッションだから。

一手間二手間かかる上、バイオ材を受け入れる加工施設も必要となる地産地消の源流です。

 

Hさんの桧林 1ヘクタール・・まだ少し厚いです~~(間伐)

 

 

こちらは我が皆伐地 1ヘクタール。

 

 

杉の枝葉もたっぷり残っています。残業は続きそうです。

続く・・・

昼が最も短く夜が最も長くなる日と

AIは答える。

 

しかし人間の世界の正解は

段々長くなってきた夜の時間が止まり

昼の時間が増え始める祝祭日です。

 

 

今年で最後の年賀状をしたためます。

 

「定番」の馬と、ちょっとひねくれた「ひだりうま」。

皆さまつつがなきや。でわでわ~

年の瀬もあとわずか! 日野川の森林(もり)

木材団地の原木市場もそろそろ店仕舞い。

 

始業前の打ち合わせが終わったら500m林道を上がります。

 

 

ザウルスを先頭に、フォワーダが続きます。

  (道はなんとか堪えております)

 

右手は間伐の終わったNさんの桧林1.5ha.

 

 

 

我が家の杉林は境界の一列を残して丸裸です^^

一応伐倒は終わっていますね。

 

 

    (4m材はオロチへ、3m材は木材市場へ行きます)

 

作業はもう少し奥へ続きます。

 

 

新築の和風邸宅が欲しがる大丸太もありますね。

掾桁(えんげた)に使う百年物ですね。

 

「えん」の字はスマホにはあってもこのPCには無い😰。

部首はじゃなくて木偏。「えん」と読み、棟から軒に渡して屋根を支える木材。特に丸い材木。百年前に建てられた我が古民家の設計図には両方の小平に2本、長さは52尺とあるので長さ約16m、厚に角9寸5歩なので28㌢という材料。 

 

 

200m奥まで、林道の右側は枝払いの終わった大木が

頭を並べて横たわっている風景。

 

さて、年が明けたら左側の間伐作業も始めましょう。

ブログじげ風呂復活版です。

2016年12月 奥出雲をゆく

 

奥出雲地方のたたら御三家

 

田部家(雲南市)、櫻井家(奥出雲町)に続いて絲原家(奥出雲町)でございます。

 

 

旧仁多の大谷にある絲原記念館。我が家のある伯耆の国のはずれからは約1時間で到着できる、たたら御三家のなかでは馴染みの場所。

この日、一台の観光バスの先客がありました。

 

 

資料館も何度かおじゃましましたのはこの家紋にひかれてのことかもしれません。

もともとは「抱き茗荷」ですが、今は「丸に花抱き茗荷」。我がどん百姓家の抱き茗荷の家紋とは一味違いますね。ここも記念館は撮影禁止なので悪しからず。

国の有形文化財である居宅に進みます。

 

        <御成門>

 

今日は藩主さまが御来遊のときお入りの御成門(おなりもん)から♪

 

 

土蔵をまわって進みます。<庭の飛び石>

 

 

酔っぱらいの先客でしょうか、せっかくの化粧が台無しです。

きちんと飛び石の上を歩きましょう。

 

 

 庭園をめぐって  <下駄>

大戸口へ向かいます。左が賓客用の式台玄関(しきだい)。

ワタシたち一般人は正面大戸口から^^

 

 

 

現在も事務所兼居宅としてご活躍中の493坪(延べ床面積)です。

こちらの母屋は新しく大正13年築でございます。

 

玄関は少しばかり高くなっていますね。

 

立派な梁組です。

 

「絲原家の祖は寛永元年(1624)に備後国から移住。松江藩の鉄穴流し解禁とともに、たたら製鉄業を開始し、天明8年(1788)には、現在地に主力鈩である”鉄穴鈩(かんなたたら)”を設けるとともに住居も移し、大正10年まで約280年間にわたりたたら操業を続けました」(奥出雲町教育委員会パンフレットより)

 

高殿と住居を設けた職住一体方式の”鉄穴鈩山内”です。四十数戸、二百数十人のくらしがあったと云われています。そうそう備後国のご先祖というのは山中鹿之助の同族と云う家伝があるとか・・・ 

 

とりあえずこれにて御三家の旅はいっぷくです。では

ブログじげ風呂復活版です。

2016年12月 可部屋集成館へ行く

 

中国山地の真っただ中、国道432号線を上る広島県境近く

 

 

内谷渓谷に櫻井家はひっそりとある。

 

貴重なお宝は可部屋集成館に展示してあるが、写真はUPできないので悪しからず。

 

 

隣りの櫻井家住宅群へと向かいます。

 

 

 真田丸に参上、パフォーマンスあふれる戦国武将塙団右衛門どのを元祖にいただくという櫻井家。歿後 団右衛門の長男直胤(なおたね)は大阪の陣のあと、広島城主福島正則に仕えるがやがて正則は転封となり、敵方であった浅野氏が城主としてやって来た。このとき母方の姓をとって櫻井と名を変え浪人となって、可部、やがて現庄原市に移って製鉄業(野だたら)を始めた、とあります。

 

櫻井家土間から
 

 「正保の頃(1644年頃)第三世直重は出雲領 上阿井の地に移り、屋号を可部屋と呼び、”菊一印”の銘鉄を創りだしました」(可部屋集成館パンフより)

 

 

母屋は元文2年(1737年)の造営開始。平成9年、主屋、土蔵など21棟が島根県有形文化財 に指定され、平成15年にはその内9棟が国の重要文化財に指定されています。

 

もう一歩奥へ進んで行きますと庭園が広がります。

 

 

雨も降ってきました。奥には「菊掃亭(きくそうてい)」という煎茶席。

 

不昧公によって名付けられた「岩浪の庭」と滝。享和3年(1803年)初めての藩主松平治郷(不昧)公の御成のとき作られたとか。屋敷地 は5600m2とか7000m2とか言われていますね。

雨は止みませんが、庭師さんは休まず作業を続けていらっしゃいます♪

 
 
 

武士を捨て、鉄の地を求めてさまよう時代が戦国時代に始まるのは伯耆国でも同じことですね。古い時代から似たようなムーブメントが繰り返されたようです。

さて次は絲原家です。