最近、切にそう思う。
昔っから、羨ましいと感じる誰かみたいになりたい。
そうなりたいと強く願って生きてきたように思う。
それは、
近所の誰よりも早くドッヂボールが投げれるおにいちゃん。
誰よりも計算が早くて、駄菓子屋さんでお金の計算ができるおねーちゃん。
鬼ごっこではなかなかつかまらない、足が速いA君。
○
少し成長すると、
喧嘩に負けない子。
スポーツが得意な子。
勉強が出来る子。
面白い子。
モテル子。
○
高校生ぐらいになると、
楽器をかっこよく弾くやつに、
みんなから好かれるやつ。
おしゃれでイケメン。
モテモテのあいつ。
勉強もスマートにこなして、スポーツもできる野郎。
あぁ~羨ましいぃぃいぃいぃ。。。
そんなそんな気持ちでいっぱいでした。
それが自分の中でうまく機能していたこともある。
お陰でドッヂの練習はしたし、算数も得意になった。
足は遅かったけど、それなりにスポーツは出来るようになった。
高校では、かわいい彼女もでき、親友と呼べる友達もたくさんできた。
でもでも、やっぱりあれになれないという気持ちがどこかにあった。
卒業してからもずっとそう。
素晴らしいメンターの方々、魅力的な仲間達。
輝かしい人達を見れば見るほど、出会えば出会うほど、
そうじゃない自分と比べてしまって、
ああなるにはどうすればいいのか悩んだ。。
今なら分かる。
これは、否定(不足)ベースの捉え方で、
ないないとないものねだりをしている状態。
自分にはないものを見続けていったら、
どれだけ加えたところで、
星の数ほどある無数のあるものを、
(時には創りだすことさえできるもの)、
すべて自分のものにできるあろうはずもない。
でも、ヒーリングを受けて、なぜだか自分を見始めた時から少しずつ変わり出した。
あるものに気づき始めたのだ。
それは、自分の中を見ようとしたわけでもない。
ただ、自分にないものを欲しいという気持ちそのものが減っただけなのだ。
すると自然と、自分(とその周り)にあるものに気づくようになった。
つい最近も気づいたことがある。
インドア派の僕とアウトドア派のパートナーとの間に共通の趣味も好きな食事も遊びもないとずっと思っていた。
しかし、うちではなぜだかよくホームパーティーを開く。
それは僕が好きだからだと思っていた。
そして、パートナーには無理をさせているともおもっていた。
しかし、違った。
人を大切におもてなしし、楽しい時間を過ごすことが好きだという共通点があったのだ。
一般的に、自分と感性の合う人と結婚するといいと言われているかもしれないが、僕たちは本当に違った。
誕生日や記念日を大切にしたい彼女と、毎日を大切にしていれば別に記念日に拘らなくてもやりたい時にやりたい僕(サプライズすぎるサプライズ)。
自分達でもどこに共通点がある??
合うところなんて無いと思っていたのに、
あるものに視点が移るだけで見つかることもある。
そうすると、
ないと思っている時は満たされないのに、
あったことに気づいただけで、満更でもなかったりする。
むしろ、新鮮。
○
人に歴史ありだ。
すでに生きて来た年数、いや先祖やなにかの歴史を考えるとそれ以上に生まれた時からあるものはある。
いったい自分には何があるだろう??
どれだけのものが存在するのだろうか?
考えてみたことがあるだろうか?
『自分である。』
とは、
(まだきづいていない)あるものを見つけた分(量)だけ
より、自分であれるんだ。
他人にあるものを見つけ、それを欲しがっているうちは
自分に近づくことは出来ない。
こう書くと当たり前の話かもしれないが、
自分であるためには、自分のあるものにたくさん気づく必要がある。