【元気net.TV】 第五回 学校では習わない大東亜戦争 | 北川元気オフィシャルブログ「元気があれば、なんでもできる!」Powered by Ameba

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「学校では習わない大東亜戦争」シリーズ第四回。

今回のテーマは「支那事変と日米開戦のためのプロパガンダ」です。

※最初から見たい方はコチラから



「支那事変と日米開戦のためのプロパガンダ」

 さて、前回は日清・日露戦争の原因について見ていきましたが、これまで言われていた侵略などではなく、日本を守るための自存自衛の戦いであることがわかりました。朝鮮半島が日本にとってどんな役割を負っていたのか理解できればわかりますね。
 実は、これからお話しする昭和12年から始まる支那事変、そして大東亜戦争も自存自衛の戦いです。つまり、戦前の日本の戦いはすべて自存自衛の戦いであり、正当防衛です。ここを間違えずに覚えておいてください。

支那事変と日中戦争の違いは?
 まず、支那事変は学校では日中戦争と習っていると思いますが、これも太平洋戦争同様に当時の様子が分からないように、戦後押し付けられた造語です。どういうことかというと、まず日本が中華民国(当時の中国)と戦争をしようとして始めたものではありません。ついでに言うと中国というのも当時の呼称ではありません。中国とは他の国に対する差別語ですから、当時の日本では世界共通の支那と呼んでいました。中国という国名は戦後、言論統制が敷かれる中でそう呼ぶように押し付けられた国名です。したがって、ここでは歴史事実に基ずくために正しく支那と呼びます。

 では、なぜ当時は支那事変と呼ばれたのか。それは、元々は戦争では無く、局部的な事件だったからです。特に昭和に入ったあたりから、在支外国人に対して此れでもかこれでもかと暴虐の限りを尽くす支那人に対し、英米などは軍艦を派遣し報復攻撃をするなど毅然と対処しましたが、日本政府は協調外交の名の下に報復をしない、結果的に日本人だけがターゲットになるようになりました。

南京事件とは大嘘なの??
 実は南京事件というと、いわゆる南京大虐殺を思い浮かべる方が多いと思いますが、戦前の新聞を調べたところ南京大虐殺などと言う語は一つも出てきません。教科書にものって当然あったかの如く語られているのにですよ。さらに、南京事件で調べると昭和2年に日本人居留民が虐殺された事件を指します。つまり、加害者と被害者が真逆なんですね。さらにその後も支那各地で日本人が虐殺され、とうとう昭和12年の通州事件では2百数十名の日本人が中国保安隊や一般人に虐殺されています。こんなに無茶苦茶されているにも関わらず当時の政府は派兵しません。

 国民世論は暴れる支那に対し、欧米同様に毅然と懲らしめろと求めます。「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」とは当時の新聞紙上で派兵を求めるため繰り返されたスローガンです。

支那事変の真相
 さらに、8月上海で大山大尉が殺害され、欧米日の租界へ無差別攻撃を受けたことにより、日本政府もとうとう不拡大方針を捨て、早期停戦のため派兵するようになる。当時の欧米のメディアも日本の派兵は当然という報道をしている。『ニューヨーク・タイムズ』(1937年8月30日付)はこの一連の事件を「日本軍は敵の挑発にもかかわらず、最大限に抑制した態度をとった」とある。簡単に言えば、日本は支那の横暴に対して我慢に我慢を重ねたが、これ以上我慢していると横暴が酷くなるので止む無く派兵した。したがって、戦争ではなく支那事変と呼ばれる所以です。

支那事変が全面戦争化した理由
 そこで、首都南京を攻略してさっさとこんな戦いは終わらせようというのが政府の方針でした。ところが、国民政府の蒋介石は重慶へ逃れ、欧米の支援に頼り徹底抗戦する。当時の日本軍と国民政府軍には、大きな戦力差があったので日本政府としてはすぐに降伏するだろうと考えていました。ところが、欧米が武器弾薬だけではなく航空技術の訓練までして日本と戦わせようと国民政府の味方をしたのです。つまり、日本と支那の戦争なら強い日本がさっさと決着をつけて終わらせていたものを、欧米がグルになりありとあらゆる手伝いをするようになった。日本としてはたまったものではないですね。