彦根藩も高い関心があった吉田松陰の志。 | 北川元気オフィシャルブログ「元気があれば、なんでもできる!」Powered by Ameba

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彦根藩側から吉田松陰先生の辞世が発見された記事。

こういうのを見ると、ますます歴史の繋がりを感じます。


去年、私の事務所に来てくれているインターン生の卒業研修で

萩の松蔭神社に行った時の興奮を思い出します。

魂に突き刺さった「留魂録」オススメです!

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政敵であった松陰の志に高い関心を持っていた彦根藩。

吉田松陰という伝説を完成させた彦根藩。

あらためて彦根の歴史についても勉強したいと思います^^



(朝日新聞デジタル)
吉田松陰直筆の辞世、敵方から発見 彦根藩が関心か

 尊皇攘夷(じょうい)派が弾圧された「安政の大獄」で刑死した幕末の思想家、吉田松陰の自筆とみられる辞世が、大獄を主導した幕府大老、井伊直弼(なおすけ)が藩主を務めた彦根藩関連の史料から発見された。井伊家の史料に詳しい井伊美術館(京都市東山区)が発表した。松陰にとって「政敵」側から見つかった形で、専門家は「松陰に高い関心を持っていたことがわかる」という。

 松陰には複数の辞世が残る。今回見つかったのは、現在は山口県文書館に保管されている「絶筆」と同じ内容のもので、江戸での刑死直前に詠んだ「此程(このほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)はけふきくこそ嬉(うれ)しかりける」。死への覚悟はできており、きょう死ぬことを聞いてもうれしく感じるという意味となる。

 直弼の伝記執筆のための史料を収集していた美術館の井伊達夫館長(71)が、直弼の側近・長野主膳(しゅぜん)の手紙などを貼り付けた巻物を古物市で入手。巻物の中に添付された和紙(縦27・5センチ、横19・5センチ)に記されていた。和紙には主膳自筆とみられる裏書きがあり、牢役人を通じて入手した旨が書かれていた。

 鑑定した佛教大学の青山忠正教授(日本近代史)は「知人や門人に残すため、同じ内容の辞世が複数あってもおかしくない。筆跡や筆勢からみて本物の可能性が高い」と指摘。「松陰の敵方である主膳が、最後までその動静に関心を持っていたことをうかがわせる貴重な資料」とみる。

 松陰の名は「矩方(のりかた)」だが、山口県文書館のものと同様、辞世には「矩之」と添えられていた。これまでは処刑前に動揺して自身の名を間違えたとの見方もあったが、刑死で名を汚さないようわざと改名した可能性が強いのでは、という。

 井伊館長は「偶然の発見だが、松陰の霊が働きかけているような、因縁めいたものを感じる」と話す。

 辞世は年内にも公開予定。問い合わせは美術館(075・525・3921)へ。(佐藤剛志)

     ◇

〈吉田松陰〉 1830~59。長州藩出身。54年、下田沖の米・ペリー艦隊(黒船)に密航を企てて失敗し投獄された。出獄後は萩で松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、高杉晋作や伊藤博文、山県有朋ら維新の人材を多く育てた。日米修好通商条約に絡んで幕府を批判して再び投獄され、安政の大獄で死罪となった。辞世の句として、弟子にあてた「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」と、家族あての「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」が有名。