時はバブル全盛期の平成元年。一番価値があるものはお金とされていた時代に、心と心とをつなぐコミュニケーションのあり方に興味を持つ者は大変少なかった。
当然である。コミュニケーションの大切さが世間に浸透したのは最近のことで、当時は、会話術なんて、女性を口説くか、誰かを騙すための手段としか思われていなかった。
そんな頃、野口敏氏は話し方教室TALK&トークを大阪に開いたのだった。
今から思えば、若気の至り、無謀な賭けであった。会話の研究は世界でもまだ始まったばかりで、参考になる本などほとんどない。誰の足跡もない荒野を手探りで進むような毎日。手掛かりとなるのは、生徒の悩みと戸惑いの声だけだった。
『初対面の人と話すのがむずかしい』
『知らない話題になるどどうしていいかわからない』
『話はできても親しくはなれない』
そういった声を解決する方法を、彼は探した。ハウツーだけでは解決しないがわかると心理学の勉強を始めたのだが、ひとつがわかるとまたその奥にある疑問が顔を出す。『やった、つかんだ!』と思って教室で試してみても、生徒の顔には戸惑いの表情が浮かぶだけだった。
そしてまた初めからやり直し、という二十年であった。
あるベテランのタレントさんが、『芸の道は十年ではまだヒヨコ』と言うのを聞いて、思わずうなずいてしまった。教室スタート当時、彼は親しい人に、『この仕事は十年かかる』と言っていたのだが、十年ではまだまだ道遠しという状態だったのだ。
経営的にもほとんど採算が合わない辛い日々。挫折なんていうものではない。毎月採算ギリギリで、ときどき大赤字。少しずつ、そして確実に借金が増えていく日々を想像してもらいたい。
しかし、やめようという気はまったく起こらない。トロイの遺跡を掘り続けたシュリーマンとまではいわないが、そこには大事なものが埋まっているに違いないと信じ続けた二十年であった。
そしてとうとう掘り当てた。
『会話は気持ちのキャッチボール』
この言葉に思い至ったとき、一本の道筋が目の前に現れた。彼の理想としていた『今日受講した人が、今日うまくなる』ことができるようになったのだ。
彼の教室は訪ねる人はよくこう言う。
『ほしかった内容がすべてここにある』
『かゆい所に手が届くように教えてくれる』
『会話が学問になっている』
当然である。彼が教える内容は思いつきではなく、すべて生徒から聞いた悩みや戸惑いをスタートしているのだから。
これまでに教室や研修でコミュニケーションのあり方やスキルを伝えた生徒は5万人を超えている。彼らの悩みや戸惑いを聞くことが彼を成長させてくれたのだ。
なかでも、講師としての力量を磨いてくれたのは、個人レッスンを通じて聞かせてもらった生徒の生の声であった。それはうわべで接していたのでは、決して聞くことのできない貴重な彼らの本音であったのだ。
『こんなくだらないことは人に言うものではない』
『これを言えば人は自分を嫌うだろう』
『うまく話さなければ、上手に切り返さなければつまらない人間と思われる』
『こんなことを聞けば失礼になるのでは・・・・・・』
そうか!だからうまく話せなかったのか。だから人との距離に戸惑いがあったのか。すべては生徒が教えてくれたことばかりであり、それらがこの本の土台になっている。少しばかり話がうまい人が上からものを言う本ではない。きっと多くの方が膝を打ち、共感してくれるだろう。
コミュニケーションの真髄は、目の前にいる人を大切にすることにほかならない。自分を大切にしてくれる人のために、人間は行動する。成功と幸せは多くの人々の協力なくしてはありえない。
では、その〝心をつかむ話し方〟をひとつずつ皆様も噛み締めてください。
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『一瞬で心をつかむ話し方』 野口 敏 著