1月1日の夕方、その時から全てが変わってしまった。

偶々、娘と私は娘のバイト先、鮨処 伸福の女将さんの計らいで1日早く豊田市に帰ることとなり

30日には素晴らしいお寿司を頂いて、

翌朝、31日に輪島市を経ち帰ってきていた

1日は輪島からの土産を届けたりして

そろそろ自宅というトコロで娘と私のスマホがけたたましく地震警報を鳴らし輪島市に慣れていた私達は「はいはいいつもの」感覚だった。

その直後、二発目はハッキリと車庫入れの時でも判るくらいの揺れ方で、すぐに駐車場に入れた車のモニターを切替た。

すぐにアナウンサーの悲痛な叫びが「津波がくる」事を物語る。

徐々に情報が出始める。

ぐしゃぐしゃに潰れた大好きな輪島市の空撮映像が流れる。

関係者の無事を確認し、

情報を収集し、現地に連絡をとり

状況を必要に応じ連絡していただき

ようやく、ひだ池に顔を出すことが出来たのは3日の昼過ぎだった

常連のYさんや奥村社長と被害状況を話し

現地からの依頼で帰郷困難者の救助に行く事を話し準備を始めるため予定と変わってしまう事を話していたら

常連Yさんと社長から「交通費やら充てよ」と


そして、昨日の夕方も社長とミーティングを終えた直後に

ひだ池のお客様から「そういう事なら…」と

 

涙を堪えながら受け取らせていただきました


熱い、熱いお気持ちもいただきました。

必ず、帰郷困難者を救出してまいります。

必ず、民間避難所の焚出し、ラトリエ・ドゥ・ノト池端シェフ、若手のスターピザさん達に資材供給を果たしてまいります。