階級形成論の方法的諸前提(第八回) | 限界小説研究会BLOG

階級形成論の方法的諸前提(第八回)

階級形成論の方法的諸前提(第八回)
笠井潔


 前資本主義社会は、ヘーゲル風に表現すれば「即自態」であるからその階級意識も即自的にしかありえず、自己を自己として意識することができなかった。資本主義社会は歴史の「対自態」であるから、その階級意識(ブルジョワジーの階級意識)は弁証法的な矛盾に満ちたものであり、たんに即自的なものではないけれど、やはり自己を自己として知ることはできない。ブルジョワ社会における自然発生的な意識形態としての「商品関係についての意識」を生活としてブルジョワジーと共有するプロレタリアートの意識もまた、この段階ではたんに対自的な意識であり自己を意識するものではない。ただプロレタリアートの対自的な意識は、即自・対自的な意識へと自己を止揚する客観的可能性をもっている点で、ブルジョワジーの階級意識と区別されなければならない。プロレタリアートの階級意識は即自・対自的な意識であり、ブルジョワ社会における生活意識としての対自性から区別されなければならない。
 ヘーゲルにおける「われわれ」wirとは絶対精神であり、あるいは「哲学者たち」でしかなかったが、真の意味での「われわれ」とは、階級意識を獲得したプロレタリアートの立場に他ならない。ブルジョワジーの階級意識も、プロレタリアートの立場から見てのみ、すなわち「われわれにとって」fur unsのみ、階級意識として意識されるのである。ブルジョワジーは自己の意識形態を「人類の普遍的な」意識だと信じて疑わない。
 プロレタリアートの階級意識は、だから、実現されたものではありえない。在るがままの・心理学的なプロレタリアートの意識は、ブルジョワ的な生活意識に表層を覆われていて、その階級意識は、階級的な無意識としてプロレタリアートの深層に沈澱している。けれどもそれは未来の革命的な瞬間に、一瞬のうちに顕在化するだろう。その時点まで、プロレタリアートの階級意識は「実存としてのプロレタリアート」die Existenz als Proletariatに対する「立場としてのプロレタリアート」der Standpunkt als Proletariatとしてしか考察されえない。
 けれども、われわれはここで一つの決定的な難問に行き当たる。もしもプロレタリアートの階級意識が経験的現実でないのなら(そしてこれは事実なのだ)、それは理論家の空想でしかないと何故いえるのか、という問いがそれである。ルカーチが直面したこの困難性を、メルロ=ポンティは次のように要約している。「論理というものは意識にたいしてしか存在しないので、プロレタリアたちは歴史の全体性を認識していると主張するか、あるいはプロレタリアートは即自的には(つまりプロレタリアート自身にとってでなくわれわれの目には)真の社会の実現をめざしている勢力であると主張するか、そのいずれかでなくてはなるまい」(註1)、「困難は、プロレタリアートが主体でなければならないか、それとも理論家にとっての客体でなければならないかという点にある」(註2)。メルロ=ポンティは、独自の方法でルカーチのこのディレンマを止揚する方向性を示しているのだが、われわれはこの難問にもう少し深く関わらなければならない。この二律背反こそが組織=階級形成論における諸々の誤謬の源泉となっているのであり、また前衛主義と自立主義、客観主義と主観主義、科学主義と人間主義などの対立をもたらしているからである。この二律背反を決定的に止揚する者のみが、組織=階級形成論の構築をなしとげるだろう。
 われわれはこのディレンマを決定的に止揚するために、ヘーゲル、マルクス、ルカーチと継承的に発展させられた方法の一つの側面を徹底的に純化していかなければならない。そうすることによって初めて、問題の所在を明確にすることができるし、ディレンマの解決の糸口も掴みうるのである。
 ヘーゲル哲学が全体性の哲学であるのは、その特有の方法に根ざしている。
「世界がいかにあるべきかを教えることにかんしてなお一言つけ加えるならば、そのためには哲学はいつも来方がおそすぎるのである。哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げた後にはじめて、哲学は時間のなかにあらわれる。(略)哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがく時、生のひとつの姿はすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生の姿は若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは黄昏とともにとびたつ」(註3)というヘーゲルの有名な言葉のなかで象徴的に語られているように、ヘーゲル哲学の立脚点は、ヘーゲルの前で歴史はその発展を終えて停止しているところにある。「真理は全体である。だが全体とは自らの展開を通じて、自らを完成する実在のことに他ならない。絶対者について言わるべきことは、絶対者が本質においては〝結果〟であり、〝終り〟にいたってはじめて、自ら真にある通りのものになる、ということである」(註4)。ようするに、ヘーゲルは彼の「現在」において歴史は終焉したと見なし、過去を振り返りつつ部分に全体が優越することを確認する。歴史が終焉しているからこそ、歴史は全体性として把握しうる。ルカーチにおいては、歴史の終焉は「現在」ではない。彼は、プロレタリアートがその真実の意識としての階級意識を全的に獲得するであろう未来の一時点に、あるいは「革命の黙示録的瞬間」に思想的な飛翔をとげ、そこから歴史を後向きに振り返る。比喩的にいえば、ルカーチの思想にこうした一面があることは確実である。だから「全体性」は、ヘーゲル哲学を継承するものとして、ルカーチの理論体系の中にもちこまれることができた。ルカーチの全体性カテゴリーは、こうして、プロレタリアートの立場(それが実現されるのは、革命の黙示録的瞬間であろう)を抜きにしては存在しえないが、この「立場としてのプロレタリアート」der Standpunkt als Proletariatを理論的に設定しうるのは、マルクス主義がプロレタリアートのなるであろう姿を先取りするからである。この意味でマルクス主義は、いまだ実現されていないプロレタリアートの階級意識に他ならない。
 ルカーチの方法を劇的に印象づけるこの独自性、歴史を全体性において把握するために自己の認識拠点を「革命の黙示録的瞬間」へと投げかけるこの姿勢を可能とさせた、マルクスの理論とは一体いかなるものであるのか。われわれの考察はそこに進まなければならない。

註1 『弁証法の冒険』一〇八ページ
註2 同 三五九ページ
註3 『法の哲学』ヘーゲル(中央公論社「世界の名著」35)一七四ページ
註4 『精神現象学』二四ページ