NHKのブログ では黒田官兵衛は「生涯550数度の合戦で一度も負けを知らなかった戦の天才だが・・・」と紹介されています。黒田官兵衛が戦の天才であったことを否定する人は少ないと思う。しかし「一度も負けを知らなかった」というのは事実か・・・・?


翌々年度のNHK大河ドラマの主役が黒田官兵衛に決まり、姫路に来る観光客に少しでも高砂まで足をのばしてもらうため「高砂のプレゼンス」を向上させたいというのが、これまでのブログ でも繰り返し述べてきたところです。


もっとも、黒田官兵衛は高砂にあまり関係していないのでしょうか?私も先日までそう思っていました。


しかし、十輪時に行くと、高砂城城主であった梶原景秀の墓に「最後の城主景秀公は黒田官兵衛の仲介により羽柴秀吉に帰順した」という立札が高砂市観光協会の名前で立っているではないですか!?


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そこで、気になるのが梶原景秀と黒田官兵衛との関係です。一説によれば、三木城を兵糧攻めする際に、重要な補給基地となっていた高砂城を攻めようとし、秀吉と黒田官兵衛らは高砂城を攻めたようです。(その際に高砂の「相生の松」を焼いたらしい)


そこで、城主の梶原氏は毛利輝元に援軍を要請し、毛利は援軍を派遣し一軍が高砂城に直接赴き、一軍は伊保港から上陸し、秀吉軍を挟み撃ちにした。結果、秀吉軍はボロ負けし加古川城に逃げ帰る。「播州太平記」にも、秀吉軍は、

「中に取り篭められ、うろたえ廻わるをここぞと切付、かしこに薙伏せ、多く海中に突込んで首を取ること限りなし」

とある。


黒田官兵衛負けているではないですか!?しかも、この高砂で!大河ドラマではこの辺りもドラマ化して欲しいところです。


ただし、「播州太平記」は江戸時代の作品であることに留意を要します。(「高砂市史」には以上の点を取り上げた記述はありません)


(つづく)

PS以上の圧勝後、毛利軍は追撃するでもなく、高砂城にとどまり制海権を維持するでもなく、なぜか、引き上げたらしい。なぜか毛利軍が引き上げたため、秀吉軍は高砂城に反撃を加え、落城。梶原氏は秀吉に投降したようである。