「なにか疚しい気持ちをもつ法律家こそが良い法律家なのだ」

忘れていた言葉が、先日恩師より頂いた本で思い出しました。と同時に、恥ずかしながら、その言葉がラートブルフの「法哲学」の一節を倉田卓次判事が訳されたものであったことをその本の中で知ることに。


そのプレゼント頂いた本は、大学院時代の恩師が昨年入院された際に書かれた日記の形式であはるものの、本のはじがきに、「現実に目の前に迎えている社会は、団塊の世代の私たちが『かくあるべし』と願っていた社会と全く異質なものであると私は思う。平素、苦々しく思っていたこと等についても語ることで、この世代の思いを文章に表し、他の世代に問うてみたいという気持ちもあった」とあるように、社会の諸問題を通して、我々若い世代に、法を学んだ者に、人間愛に根差した正義感をもって日々取り組んでいるかが突きつけられているように思え、読後は自責と興奮にかられる。


恩師がいかなる意味で現在の社会が「願っていた社会と全く異質なもの」とされたかは不肖の教え子である私には分りません。しかしながら、私自身も「自分と他人とに明確な線を引いた上で、同じ社会の一員という感覚を失った上で、寛容さを失ったというか、攻撃的になったというか・・・うまく表現できませんが、現在の社会に対して持つ違和感があります。


うまく表現できないので近時のものだけでも例を挙げれば、

・ある芸能人の家族による生活保護受給をきっかけにする生活保護バッシング


・非正規雇用に対する自己責任論、

・いじめ問題の加害者に対する世論の厳しさ、

・公務員の飲酒運転(私自身、隠蔽は問題だが「飲酒運転で逮捕されれば直截的に懲戒免職・解雇となるのは、妥当ではないように、私は、思います」http://ameblo.jp/genjyoudaha/entry-10875253468.html

などなど。


現在において人生がうまくいっている人でも、たとえばいつ病気や事故で生活保護制度を頼るか分らないはずであるのに、バッシングする者は受給者とそれほど異質な存在なのか?

正規雇用で働いている者は、非正規雇用者とそれほど異質なのか?(私の世代も就職氷河期にあたり、私自身も派遣で働いた経験がある)

いじめた経験・いじめられた経験(議会でもいじめられているから現在進行形か)があり、また飲酒運転を見逃した経験もある(私自身は運転免許がないが)

私からすれば、「やましさ」もない無邪気な批判に触れると違和感を抱いてしまう。

身近なところでも、議会において声を荒げて行政職員をバッシングしている議員の姿を見ていると、何とも言えない感覚に陥る。(※)


いつものことながら、つらつらとまとまりのないブログになった「やましさ」と、

もし仮に恩師がこのブログをご覧になられていたら「やはり、できそこないの教え子よ」と苦い顔をされるであろう「やましさ」と、

何より、自ら現代社会に対する違和感を独白するも、その実、その違和感を吐露する程立派な人間ではない「やましさ」を感じながら。


※ もっとも、政治家は別。選挙の際に「自分の名前を書いてくれ」という厚かましい人間は、悪意に満ちていない限り、いかなる批評にも耐えるべき。