議会(高砂市議会のみならず議会一般の話)の役割に疑問符が久しいように思います。議会のみならず議員の資質にも批判的な厳しい意見が付せられているのが現状だと思います。もっとも、かかる議論は現代に特有の議論ではなく、後に述べるケルゼン、カールシュミットの時代以前からのテーマであったように思います。


1.主体的事情に置き換える困難さ

しかし、忘れてはならないのは、議会の地位が相対化したのは(歴史を振り返れば、民主主義との幸せな結婚を果たした議会は一時期までは絶対的な信認を受けていた。日本国憲法41条が議会を「国権の最高機関」と位置づけたのは、その名残りである)、立法国家から行政国家への移行という、いわば客体の事情であり、議員の主体的事情ではない点である。


この点、議員は無報酬あるいは日当制にすれば良いという意見は、議会無用論に立ち、実質的に議会を無力化せんとする企てならば格別、そうでないなら行政国家現象に対する無理解も甚だしい。(複雑多岐にわたる行政政府に対するチェック・アンド・バランスは片手間にできる仕事ではない)


議会の役割低下が客体の事情であるにもかかわらず、議会改革は、主体側の努力により、少なくとも新しい統治のしくみを構築するまでの間は、議会の地位の復権を目指さなければならない点に自己矛盾的難しさがある。



2.公開と討論

他方、議会必要論者の一部はいう。議会での議論は減ったがポーレミクの設定やときとして政策・条例案制定過程に与党は関与しているのであるから、ここに議会の存在の意義は失われていないと。

議員内閣制を採用していない地方議会において与党もクソも本来ないのであるが、そこはさておき、かかる「奥の院」で物事が決まることに対して異議をとなえたのがカール・シュミットであることは忘れてはならない。


議会改革とは、「奥の院」での話し合いをいかに議会に引きずりだすか(カール・シュミットは議会の本質を討論と公開に求める)という視点をなくすことはできない。


3.ツー・トラック

議会改革においては、議会の地位相対化が1世紀近くも前からの議論であるにもかかわらず、なぜ現代において声高に叫ばれるかを考えなければならない。私は、議会(フォーマル)の議論と市民社会(インフォーマル)の議論のズレにあると考えます。

すなわち、戦後日本の議論は、雑にいえば、「経済的に豊かになりたい」の一点であったように思います。またそれゆえに、要不要も含めて議会の役割を問われることはあまりなかったし、また高度経済社会を前提に、議会・議員はパイの分配を競えばよかったように思います。

しかし、ある一定程度の「豊かさ」を手にした現代、そして成長社会から成熟社会に入ると市民社会と議会の議論はズレを生じはじめます。


議会改革とは、このようなズレを前提にインフォーマルの議論がフォーマルな議論にインプット(公聴会など)され、かつフォーマルの議論が市民社会にアウトプット(議会報告会などを通じて)されるようなものでなければならないと考えます。


なお、http://ameblo.jp/genjyoudaha/day-20110707.html


4.最後に

ケルゼンは両立しがたい価値の対立を神学論争として貫こうとする限りは議会制民主主義が機能できないことを冷静に見通していたことには留意を要するように思えます。


高砂市議会議員 中西かずとも オフィシャルブログ-ipodfile.jpg

PS酒も入って意味不明のことをつらつらと書きつらねながら・・・

PS2 「議会改革」と名のつくアンチョコを読んで議論を終始する安っぽい議会改革はやめましょう!