先日(②にて)、公私二元論に「魅力がないわけではない」と書きました。

それは、「公」の領域と「私」の領域に境界線があると考えることにより、この境界線が防波堤の役割を果たすという理由です。

つまり、「公」が「私」の領域を覆いつくすことがないようにする道具概念が二元論であったように思います。


しかしながら、その境界線はもともと曖昧でした。(「私の領域」でも、たとえば民法の一般条項のように、「公」の次元は可視的であった)

それに加えて、①で書いたように、「地縁・血縁、社縁の希薄化、核家族化、個人の原子化」 により各人がバラバラとなったのではないかという指摘

(これは「権利ばかり主張して義務を果たさない」「アメリカみたいになってきて日本人の良さが失われている」などなどの声となってあらわれているように思われる)

に対し逃げずに正面から受け止めるためには、境界線を墨守するのではなく、新しい公共を模索しなければならないように思われます。


もっとも、二元論の問題意識は受け止めなければなりません。


そこで、「新しい公共」は、


Ⅰ 個人主義、自由主義

(市民の自由を「公」という概念で圧し潰されないようにする=「滅私奉公」や全体主義の否定。)


Ⅱ 公共性の開花

(孤人主義(←つくってみた)、滅公奉私の否定。共同体を創造することと同じかもしれません)


という二律背反的な難しい要請に挑戦しなければならないように思います。


では、この止揚をどうするのか?

まず、直截的であっては、Ⅰの要請はみたされないように思われます。


中西オマエは、「子どもを虐待から守る条例」案における議会の審議で賛成し、市民の責務が家庭内にあることを認めたではないかというような反論があるかもしれません。


しかし、同条例案は、「直截的」な「公」の流入ではないと考えられます。

次回は、それについて書いてみたいと思います。


PS ある方がブログでボーリングについて書いておられました。どうやら娘さんとそのお友達の周囲でボーリングがブームのようです。

ボーリングといえば、「孤独なボーリング」という本があります。ずっと読んでみようと思いつつも、まだ買ってもいません。(約7000円という値段と約700ページというボリュームに気後れしている・・・)

ちなみに、私はボーリングとカラオケが下手であり、人前ではしないことにしている。←じゃぁどこでやるねん!?と一人でツッコミをいれながら・・・