「平重盛に仕えていた加賀白山本宮(白山比咩神社)の神主の次男」
「平重盛に仕えていた加賀白山本宮(白山比咩神社)の神主の次男」
著作:加越能地名の会 後藤 朗
今から25年前のこと。平成13年(2001年)12月に「白山比咩神社本宮」に参詣し、その際に神社の宝物館を初めて見学しました。
宝物館内に陳列されている文物の中で最も私が興味を持っていたのは、展示台の中に広げて展示されていた、同社に伝わる神官系図「上道氏次第」という文献の原本でした。
「上道氏次第」の文面では、神主「氏続」の弟である「氏綱」(柏野二郎)という人物の名の右に「小松□□」という文字が書かれています。しかし、原本では□□の部分が擦れていてよく判読できませんでした。そこで、係の方に了承を得て、クローズアップで撮影しておきました。
この「上道氏次第」はすでに石川県で活字化されており、『加能史料』などでは「小松□□」は「小松在住」と記されています。「氏綱」(柏野二郎)は小松に住んでいたことになっています。
その頃すでに、石川県小松市の「小松」の地名由来は平重盛建立の「小松寺」の寺号であると確信していた私は、平安時代はもちろん鎌倉時代にも地名としての「小松」は存在しなかったため、「小松在住」は明らかに誤読であると断定できました。
それ以来、「小松□□」は「小松寺住」または「小松寺仕」、あるいは「小松(寺)在住」であり、さらには「小松殿仕」とも読めるのかもしれないと考えながら、考察を進めてまいりました。
それから数年経った頃、「小松□□」は「小松殿仕」と読むのが正しいことが判明しました。
それまで「小松殿仕」と読む先学の解読例がひとつも見られなかったので自信がなかったのですが、明治初頭に政府の方針に従い白山の神仏分離を積極的におこなった郷土史家の森田平次翁(柿園)(1823?1908年)が書き写した、手書きの「白山神官系図」が石川県立図書館に保存されていることを知りました。
さっそく、県立図書館でこの森田平次翁(柿園)が書き写した手書きの「白山神官系図」を閲覧したところ、そこには「小松殿仕」とはっきり記されておりました。
森田翁も「小松殿仕」と読んでいたのです。しかし、著作の郷土地誌『加賀志徴』には何も触れられていませんし、「小松殿仕」の意味するところも記述されてはいなかったようです。おそらく翁は、その意味まで吟味していなかったのではないでしょうか。
私は、この時代(平安末期)における「小松殿」は平清盛の嫡男である平重盛のことであり、「仕」は「仕官」の意味であると判断しました。
この系図(上道氏次第)にある、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した「白山本宮神主の上道氏(かみつみちし)三兄弟」(氏続、氏綱、氏明)についてまとめてみました。
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上道氏続 :嫡男、白山本宮神主、平等寺殿、暗殺される。
上道氏綱 :次男、柏野二郎、平重盛(小松殿)に仕官していたが加賀に戻る。
上道氏明 :三男、宮丸四郎、兄の死後に白山本宮神主を継ぎ、同時に後鳥羽上皇 の西面武士でもあったが、「承久の乱(1221年)」の後に神主職を 没収された。
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そして、論考をまとめて私が参加している「加越能地名の会」の会誌に掲載しました。
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加越能の地名№32(2008.4.1)より
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「平重盛に仕えていた加賀白山本宮の神主の次男」
白山比咩神社所蔵の文献に〔上道氏次第〕(神官上道家系譜)というのがある。「上道氏」は平安の寛弘年間から鎌倉を通じて加賀白山本宮の神主職を世襲し、同時に宮保・宮丸・米永・柏野・笠間など白山麓を源流とする手取川の旧扇状地に基盤を持っていた。
平安末から鎌倉はじめの時期、加賀白山本宮の5代神主氏成に氏続・氏綱・氏明という3人の子息がいた。嫡男の氏続は6代目の神主職に就いていたが承元2年に不慮の死をとげたので、建保2年になって3男氏明(宮丸四郎大夫)が神主職についた。
氏明は京都で後鳥羽院御所の西面の武士でもあったため、承久の乱で神主職を解任され、氏続嫡男の氏盛が正式に7代目として神主職をついでいる。氏明とその2人の子息が西面の武士であったことは、〔上道氏次第〕に〈隠岐院西面衆〉とあるので、すでに明らかである。
いっぽう、氏成の2男で、氏続の次弟に氏綱(柏野二郎大夫)という人がいた。〔上道氏次第〕の系図で、〈氏綱〉と書かれた文字の横に〈小松□□〉と記されているのが目立つ。
「□」は判別しがたい文字である。名の右横に特にこのような添書きがあるのは系図のうちではこの人物だけである。氏綱は次男でもあり、神主職には就いていなかった。氏綱は2男でもあり神主職についていない。
〈小松□□〉については、これまで研究者により読み方が異なっており、〈小松□任〉や〈小松□住〉そして『加能史料(鎌倉1)』では〈小松在住〉としている。
〈小松在住〉としたのは、氏綱がその名字にゆかりの手取川旧扇状地の柏野(現白山市内)ではなく、同じ加賀の小松(今の小松市内)に「氏綱が在住していた」と解したからであろう。
しかし、地名の「小松」を念頭において強引に〈小松在住〉と読むのは大きな間違いつまり誤読である。平安・鎌倉期に加賀の地に「小松」という地名はまだ存在していなかったからである。
「住」と「任」の字が系図の他の部分にいくつかあり、〈小松□任〉でも〈小松□住〉ではなく、『白山比咩神社叢書』にあるように〈小松□仕〉と読むのが正しいようだ。また、「在」と読まれている文字は、他の箇所にある「殿」のくずし字と非常に似ている。
平成13年にはじめてこの系図に接して以来、筆者は最終的に〈小松□□〉は〈小松殿仕〉と読むべきであろう、としてその意味もあわせてあれこれ考察を続けてきた。
〈小松殿仕〉とする先学の解読例がひとつも見られなかったので自信がなかったが、明治初頭に政府の方針に従い白山の神仏分離を積極的におこなった郷土史家の森田平次(柿園)(1823~1908)が書き写した手書きの「白山神官系図」に、このたび接することができた。
そこには〈小松殿仕〉とはっきり記されている。森田平次(柿園)も〈小松殿仕〉と読んでいたのである。しかし、著作の郷土地誌『加賀志徴』には何もふれていない。
〈小松殿仕〉の「小松」は地名ではない。平安末期で「小松殿」といえばとうぜん小松内大臣平重盛のことであり、氏綱(柏野二郎大夫)は青年期に京に上って平重盛に仕えていたということなのである。
氏明らが上洛し西面武士になっているので、兄が平安末に平家の家人として仕えていたのは間違いない。系図や他の史料から、氏綱は平治の乱の頃に生まれ1230年頃まで生存したと推定できる。
同じく平重盛に仕えていた人物として、滝口入道や重盛薨去の後に源頼朝に仕えて蘇我兄弟の仇討ちにあった工藤祐経がいる。
氏綱と同時期に加賀から京に上り、白拍子として平清盛に寵愛された女性が仏御前である。彼女と同郷で平家小松殿の家来であった青年氏綱は、清盛を魅惑した天下の美女が謡う今様とその舞をどのような気持ちで見ていたのであろうか。 (後藤 朗)
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