2014年  息子が3歳の時だった。


担任の先生に呼ばれ「療育」の話をされた。

最初は息子の口の悪さを指摘された。


いやー、先生。申し訳ない。

それは私のせいです…。


次は、衝動性を指摘された。

確かに、殴り殴られのケンカが多いクラスだと思っていたが、息子も殴られたりするし、特に気にも留めていなかった。


先生は、カッとなるとすぐに手が出たり足が出たりする。もしかしたら発達に問題があるかもしれないと役場の診断を紹介された。


主人と一緒に園長や担任に、もう一度話を聞きに行った。聞けば聞くほど、発達障害の疑いは確信へと変わっていった。


ただ、発達障害は息子だけじゃない。

私も夫も発達障害あるわ。と感じた。


「あー、だから私は子供時代生きにくかったわけだ」となぜか救われた。


私は迷わず、役場の診断を受け、療育に通うことを選んだ。


療育の初日。療育の先生から「息子さんはハサミの使い方が苦手ですね」「息子さんは迷路が苦手ですね」と言われた。

正直、3歳でそんな上手にできるもん?こんな子供に何を求めてんの?と反抗的な気分になった。


若かった私は「息子の苦手」を否定されたと思い込んでいた。でも全然そうではなく「苦手」「得意」を見つけているだけだった。


得意不得意を見つけることで、その子がどんな事につまづいて困っているのか。それを確認するためだった。


私は、子供時代の自分に療育を受けさせてくれる環境があれば、私はまともな大人になれたのではないか…と何度も思った。


当時のクラスは、発達障害と言われている子供が多数いて、ケンカの多いクラスだった。そのせいか、年長になっても息子は治まるどころか、力も強くなり、体型も大きくなり、トラブルは増える一方だった。


旦那は仕事で不在のためワンオペの毎日。

「発達障害」の意味すらわかっていない両親には頼ることもできず、相談したところで「そんなの普通」と片付けられ…。


息子との一対一のケンカも増え始め、息子から殴られることなんてザラの毎日だった。

「どっちが先に死ぬかな」と思う日々。

こんな子を大人にしていいのだろうか…

大人になると犯罪者になるのではないか…


「一層のこと一緒に死ぬしかない」と本気で思った。誰も助けてくれない。誰もわかってくれない。誰も止めてくれない。地獄のような真っ暗な闇の中に息子と2人の世界が出来上がっていた。


もう死にたい…そう思いながら、命の電話に必死で電話をかけた。


電話の向こうには「どうしましたか」と優しいおばぁさんの声だった。


言葉をつまらせた私に「ゆっくりでいいですよ」と優しく声をかけてくれた。涙で声が出なくなった私は「もう大丈夫です」と電話を切った。


全然大丈夫じゃなかったけど、優しいおばぁさんの声にその日は生きる選択をした。


当時のことを思い出すと今でも胸が苦しくなる。

こんなことがあったね。と言える日が来るとも思っていなかった。


小学校に入り、特別学級へ入った。

放課後デイサービスも利用することもでき、息子に合う先生にも恵まれた。


デイサービスの先生は、息子をとても可愛がってくれた。暴れ出した時は、家までなだめに来てくれたり、息子と一緒にゲームをして「得意」を伸ばしてくれた。

この先生に出会ってから、息子は急激に変化をし始めた。


小学校4年からはトラブルもほとんどなく、6年になった時、特別学級を卒業し、普通級で過ごすこともできた。


この子に、こんな未来があると誰が想像しただろうか。この子の未来を信じていなかっなのは、母親の私だけで、周りの先生たちは、息子の未来を信じてくれていたんだ。



卒業式の日、

たくさんの先生が声をかけてくれた。

「お母さん、よくがんばりましたね」「お母さんの努力の賜物です」「息子さん、本当に成長しましたね」と。


努力したのは私でもなく、息子だ。

療育という道を選んでよかった。

たくさんの人に助けられた、私と息子の人生。

あの時、一緒に命を捨てなくてよかった。


この命で、私も誰かを助けられるようになりたいと思った。