ここ三日ばかり堅い話が続きましたので、今日は柔らかい話を短めに書いて参りたいと思います
自衛官時代に、最もカルチャーショックを受けた体験です。
正確に言えば、異人種と遭遇した時の驚きと言った方が妥当でしょう
話は25年以上前に遡ります
私は一般曹候補学生という枠で入隊しておりまして、その制度では入隊から二年後に下士官に任官出来るのです
防衛大には及ばぬものの、中々の高倍率の試験でした
普通の新隊員枠で入隊した場合、七年かかっても曹になれない者がザラでしたから、考えてみれば当然の話でしょうか。
教官達にも
「お前らはエリートだ!
新隊員とは違うんだ!」
と繰り返し言われ続け、鍛えられたものです
豚もおだてりゃ木に登るとは良く言ったもので、我々は一端のエリートの気概を持って、一般の新隊員とは比較にならぬ地獄の訓練を耐え抜きました
同期の仲間がいたからこそ出来た事でしょう。
熱い友情で結ばれた同期達は、心身共に一定以上のレベルにある、至って真面目な常識人ばかりだったからです。
自衛隊生活の始まりを彼等と共にスタートする事になった訳ですから、自衛官はこういう者の集団だと信じて疑いませんでした
所がその考えが打ち砕かれる日がやって来たのです
入隊から二年後、晴れて曹に任官した私に
「新隊員基礎教育過程の教育班長を命ずる」
という命令が下ったのです
私の職種は教育ではなかったし、早く部隊で一人前になる為に研鑽を積みたかっただけに愕然としましたが、命令は絶対です。
内心嫌々ながらも、私は教育隊に赴任致しました。
前述した様に曹候補学生の同期しか知らなかった私は、入隊して来た新隊員も、体力はともかく、一般常識の面では我々とさして変わりは無いだろうと考えていました
然し間もなく、それが大きな勘違いである事を思い知らされる羽目になったのです
今は普通の新隊員の30%近くを大卒が占め、それなりにレベルが上がっていると聞きますが、当時は酷いものでした。
地方連絡部(広報兼募集採用担当部署)の者が街を歩く若い男性に片っ端から
「兄ちゃん、自衛隊に入らんか?」
と声をかけていた時代です。
考えてみれば、そんなやり方で優秀な人材が集まる筈が無いのです
地方連絡部としては、員数だけは揃えて入隊させるから、後は教育隊で何とかしてくれという考えだったのでしょうが、こちらは堪ったものではありません
私の班員の中には、自分の名前を漢字で書けない者がいました。
強盗を働いた為に少年院に送致されていた者もいました。
やっと禁断症状が治まったばかりという元覚醒剤中毒者までおりました
彼等の人事記録を見た時は泣きたくなりました
一体俺にどうしろと言うんだ
彼等には先ず、自衛官以前に一般常識を叩き込む所から始めなければなりませんでした。
「時間を守れ」「朝になったら起きろ、夜になったら寝ろ」「飯を食ったら食器は決められた場所に戻せ」「ナイフを持ち歩くな」「喧嘩をするな」等々、家庭で身に着けていて当然の常識から教えなければならなかったのです
今でも忘れられない光景があります。
ある朝、班長居室にいた私を血相を変えた班員が呼びに来たのです。
理由を尋ねても
「大変です、来て下さい、お願いします」
と繰り返すばかりの彼の有様に、ただならぬものを感じた私は、急いで自班に駆け込みました。
そこには片手に電気髭剃りを持ち、顎から下が血まみれになった班員の姿がありました
とりあえず私は彼を衛生隊に運び込み、その後で班員達に事情を説明させました。
その結果、次の様な事が判ったのです。
彼は髭を剃る時に、髭剃りの外刃を外してしまった方が良く剃れると考えたらしいのです
そして皆が止める間もなく外刃を外し、髭剃りを顎に当ててしまったという訳です
道理で血まみれになる筈です
皮や肉まで深剃りしてしまった訳ですからね
幸い彼の傷は思ったよりも軽傷で、短期間で訓練に復帰する事が出来ました
二週間以上訓練から離脱すると卒業取り消しになる規定がありましたから、私も彼も胸を撫で下ろしたものです
徐々に彼等にも常識が身に着き始め、自衛官としての訓練に耐えられる様になって行きました
最初の内は、私に殴られた時に反抗的な態度を取ったり、泣いたりしていた班員も随分と逞しくなりました。
班員から隊員へと成長して行ったのです
然し、前述した様に文字がろくに書けない者には、課業後に字を教えてやったり、少年院帰りで家族に見放されている者の相談に乗ってやったりしなければなりませんでしたので、自分の時間というものは殆ど持てませんでした
不思議と辛いとは感じませんでしたね
充実した日々でした
その後、目立ったトラブルは我が班には起きませんでした。
他の班で一度だけ射撃訓練の時に起きた事案には肝を冷やしましたが
問題の隊員は射撃中に弾詰まりを起こしてしまい、焦っていました
そして弾詰まりを起こしたままの、いつ弾が発射されてもおかしくない状態の銃を抱えて立ち上がり、自班の班長の方を振り返って
「班長、弾が出ません」
と言ったのです
勿論、銃口は班長を向いた状態です
班長連中皆が、一斉に地面に身を伏せたのは言うまでもありません


嵐の様な日々でしたが、良い思い出です。
彼等との交流は今でも続いております。
特に、私が運良く選抜試験に合格出来て幹部になれた時と、一身上の都合で退官せざるを得なくなった時には、全国から集まってくれました

彼等の中には私よりも年長の者もいるのですが、今でも私を立ててくれます。
当初嫌で堪らなかった教育隊勤務も、良い財産になっているのかも知れないと思う今日この頃です
最後に
あの頃の地方連絡部の者共よ
お前らはどんな言葉で勧誘してたんだ
ナイキに乗れると思っていた奴がいたぞ
ナイキはミサイルだ
特攻隊じゃねえんだぞ
お前らは結婚詐欺師か



自衛官時代に、最もカルチャーショックを受けた体験です。
正確に言えば、異人種と遭遇した時の驚きと言った方が妥当でしょう

話は25年以上前に遡ります

私は一般曹候補学生という枠で入隊しておりまして、その制度では入隊から二年後に下士官に任官出来るのです

防衛大には及ばぬものの、中々の高倍率の試験でした

普通の新隊員枠で入隊した場合、七年かかっても曹になれない者がザラでしたから、考えてみれば当然の話でしょうか。
教官達にも
「お前らはエリートだ!
新隊員とは違うんだ!」
と繰り返し言われ続け、鍛えられたものです

豚もおだてりゃ木に登るとは良く言ったもので、我々は一端のエリートの気概を持って、一般の新隊員とは比較にならぬ地獄の訓練を耐え抜きました

同期の仲間がいたからこそ出来た事でしょう。
熱い友情で結ばれた同期達は、心身共に一定以上のレベルにある、至って真面目な常識人ばかりだったからです。
自衛隊生活の始まりを彼等と共にスタートする事になった訳ですから、自衛官はこういう者の集団だと信じて疑いませんでした

所がその考えが打ち砕かれる日がやって来たのです

入隊から二年後、晴れて曹に任官した私に
「新隊員基礎教育過程の教育班長を命ずる」
という命令が下ったのです

私の職種は教育ではなかったし、早く部隊で一人前になる為に研鑽を積みたかっただけに愕然としましたが、命令は絶対です。
内心嫌々ながらも、私は教育隊に赴任致しました。
前述した様に曹候補学生の同期しか知らなかった私は、入隊して来た新隊員も、体力はともかく、一般常識の面では我々とさして変わりは無いだろうと考えていました

然し間もなく、それが大きな勘違いである事を思い知らされる羽目になったのです

今は普通の新隊員の30%近くを大卒が占め、それなりにレベルが上がっていると聞きますが、当時は酷いものでした。
地方連絡部(広報兼募集採用担当部署)の者が街を歩く若い男性に片っ端から
「兄ちゃん、自衛隊に入らんか?」
と声をかけていた時代です。
考えてみれば、そんなやり方で優秀な人材が集まる筈が無いのです

地方連絡部としては、員数だけは揃えて入隊させるから、後は教育隊で何とかしてくれという考えだったのでしょうが、こちらは堪ったものではありません

私の班員の中には、自分の名前を漢字で書けない者がいました。
強盗を働いた為に少年院に送致されていた者もいました。
やっと禁断症状が治まったばかりという元覚醒剤中毒者までおりました

彼等の人事記録を見た時は泣きたくなりました

一体俺にどうしろと言うんだ

彼等には先ず、自衛官以前に一般常識を叩き込む所から始めなければなりませんでした。
「時間を守れ」「朝になったら起きろ、夜になったら寝ろ」「飯を食ったら食器は決められた場所に戻せ」「ナイフを持ち歩くな」「喧嘩をするな」等々、家庭で身に着けていて当然の常識から教えなければならなかったのです

今でも忘れられない光景があります。
ある朝、班長居室にいた私を血相を変えた班員が呼びに来たのです。
理由を尋ねても
「大変です、来て下さい、お願いします」
と繰り返すばかりの彼の有様に、ただならぬものを感じた私は、急いで自班に駆け込みました。
そこには片手に電気髭剃りを持ち、顎から下が血まみれになった班員の姿がありました

とりあえず私は彼を衛生隊に運び込み、その後で班員達に事情を説明させました。
その結果、次の様な事が判ったのです。
彼は髭を剃る時に、髭剃りの外刃を外してしまった方が良く剃れると考えたらしいのです

そして皆が止める間もなく外刃を外し、髭剃りを顎に当ててしまったという訳です

道理で血まみれになる筈です

皮や肉まで深剃りしてしまった訳ですからね

幸い彼の傷は思ったよりも軽傷で、短期間で訓練に復帰する事が出来ました

二週間以上訓練から離脱すると卒業取り消しになる規定がありましたから、私も彼も胸を撫で下ろしたものです

徐々に彼等にも常識が身に着き始め、自衛官としての訓練に耐えられる様になって行きました

最初の内は、私に殴られた時に反抗的な態度を取ったり、泣いたりしていた班員も随分と逞しくなりました。
班員から隊員へと成長して行ったのです

然し、前述した様に文字がろくに書けない者には、課業後に字を教えてやったり、少年院帰りで家族に見放されている者の相談に乗ってやったりしなければなりませんでしたので、自分の時間というものは殆ど持てませんでした

不思議と辛いとは感じませんでしたね

充実した日々でした

その後、目立ったトラブルは我が班には起きませんでした。
他の班で一度だけ射撃訓練の時に起きた事案には肝を冷やしましたが

問題の隊員は射撃中に弾詰まりを起こしてしまい、焦っていました

そして弾詰まりを起こしたままの、いつ弾が発射されてもおかしくない状態の銃を抱えて立ち上がり、自班の班長の方を振り返って
「班長、弾が出ません」
と言ったのです

勿論、銃口は班長を向いた状態です

班長連中皆が、一斉に地面に身を伏せたのは言うまでもありません



嵐の様な日々でしたが、良い思い出です。
彼等との交流は今でも続いております。
特に、私が運良く選抜試験に合格出来て幹部になれた時と、一身上の都合で退官せざるを得なくなった時には、全国から集まってくれました


彼等の中には私よりも年長の者もいるのですが、今でも私を立ててくれます。
当初嫌で堪らなかった教育隊勤務も、良い財産になっているのかも知れないと思う今日この頃です

最後に
あの頃の地方連絡部の者共よ

お前らはどんな言葉で勧誘してたんだ

ナイキに乗れると思っていた奴がいたぞ

ナイキはミサイルだ

特攻隊じゃねえんだぞ

お前らは結婚詐欺師か


