色々な方と話をしてみて、決まりきったフレーズや言い回ししか返って来ず、苛立ちを覚えた経験はありませんか?
今日はその事について日頃から感じている事を書いてみたいと思います
皆さんはきっと「時代が違う」という物言いを聞いた事があるでしょう。
私にはこの言い回しが、とてつもなく不自然且つ愚かに思えてならないのです
これは私が若い頃から聞かれた言い回しですから、それほど新しいものでは無い様です。
然し、それを最初に聞いた時から、ずっと違和感を持ち続けて来ました
何故か?
それはこの「時代が違う」という言い方が、相手の問いや主張に対して、何の回答にもなっていないからです。
例えば
「明治時代には1000円で家が建ったのだから、今でもそうすべきだ」
等という方がいれば、それは「時代が違う」でしょう
「昔は十両盗んだら打ち首獄門だったのだから、今の世でも被害額1000万円以上の窃盗犯は死刑にすべきだ」
等という論を展開する方がいたとしたら、それも「時代が違う」ものだと言っても良いかも知れません
然し「時代が違う」と言いたがる方に限って、まるで時代背景とは関係ない普遍性を持つ事柄を議論している時に、自分の論を正当化する為の道具として、この言葉を持ち出すのです
大体においてこの言い方を好むのは、言わば現代的進歩的な考えを持つ方が多い様です。
彼等は伝統や先人の知恵、功績等については概して否定的であり、現在生きている自分達の考えのみが正しいと信じておりますから、相容れない者に対しては極めて非寛容です
こちらが決して時代錯誤な事を言っていなくても、そこに少しでも伝統の香りを感じ取れば、それは彼等にとって「時代が違う」として断固排除されなければならない、許されぬ考え方としてしか映らないのです
私に言わせれば本当に哀れな連中です
伝統や古くから伝わる知恵や考え方は、現在に生きる我々に先人達が遺して下さった素晴らしい宝石箱ではありませんか
時代の厳しい風雪に耐え、徹底的に本質を追求しながら尚且つそれを超克して今なお燦然と輝き続ける伝統というものに、我々は敬意を払い、それを後世に伝えて行く義務があると考えますが如何でしょうか
第一、伝統が否定されなければならない様な取るに足らないものだとしたら、何故現在でも数々の古典芸術が多くの人々に愛されているのでしょうか
仏教、キリスト教、イスラム教が世界中で多くの信者を獲得しているのでしょうか
人間は伝統の力を借りずに今の時代を生きられるほど強くはないし、伝統を離れてしまうほど愚かでもないのです。
「時代が違う」という言葉を安易に口に出す者は、その事を理解していないとしか思えません
私の場合は「時代が違う」と言われたら
「うん、時代が違うよ。
だから?」
と答える事にしています。
そうすると相手は途端に腰砕けになり、何も効果的な反論等出来なくなってしまいます
当たり前の話です。
彼等自身、そんな反問を受けるとは予想もしていないし、事実受けた事もなかったのでしょう。
何より自分が言った「時代が違う」という言葉の意味を自分で理解していないのです
何だか相手を黙らせる事が出来る便利な言葉の様だから、という安易な気持ちで、意味も判らず使っていたに違いないのです。
私に反論出来た者が一人もいないのが何よりの証拠です
同様に「無党派層」なる言葉にも私は違和感を覚えます
前述した「時代が違う」とは異なり、言葉自体にはそれほど否定的な考えを持っている訳ではありません。
只、この言葉は80年代終りから90年代初めにかけて、既存政党を支持しない層が急増した事態を受けてマスコミが造った言葉なのですが、安易にこの言葉を使う方が増えているのが気掛かりなのです
ニュース番組等の街角インタビューで
「ええ、私は無党派層です」
と答えている方々の表情を見ると、明らかに誇らしげなのです
何か「無党派層」というものを、流行の先端を行く一種のモードかトレンドであるかの様な勘違いをしているのではないでしょうか

彼等の口ぶりや表情を見ていると、各政党の綱領やマニュフェスト、実績等を比較検討してみた様には到底思えないのですが……
以上の他にも様々な例がありますが、言葉の上っ面だけを撫でてみて、それを安易に使っている様というものは傍から見ていて非常に滑稽なものです
私自身も常にその事を肝に銘じる様、心掛けてはおりますが、所詮は私も弱い人間、気が付かない内に世間様に醜態を曝している事があるのかも知れませんね
最後に
流行りの言葉や決まった言い回しを使いたがる者達よ
お前らは本当にその意味を判って使っておるのか
そうでなければそれは唯の猿真似に過ぎぬ
人間ならば己の頭で言葉を紡ぎ出せ
それが出来ぬのならば、天才志村どうぶつ園で志村けん氏に遊んでもらうがよいわ


今日はその事について日頃から感じている事を書いてみたいと思います

皆さんはきっと「時代が違う」という物言いを聞いた事があるでしょう。
私にはこの言い回しが、とてつもなく不自然且つ愚かに思えてならないのです

これは私が若い頃から聞かれた言い回しですから、それほど新しいものでは無い様です。
然し、それを最初に聞いた時から、ずっと違和感を持ち続けて来ました

何故か?
それはこの「時代が違う」という言い方が、相手の問いや主張に対して、何の回答にもなっていないからです。
例えば
「明治時代には1000円で家が建ったのだから、今でもそうすべきだ」
等という方がいれば、それは「時代が違う」でしょう

「昔は十両盗んだら打ち首獄門だったのだから、今の世でも被害額1000万円以上の窃盗犯は死刑にすべきだ」
等という論を展開する方がいたとしたら、それも「時代が違う」ものだと言っても良いかも知れません

然し「時代が違う」と言いたがる方に限って、まるで時代背景とは関係ない普遍性を持つ事柄を議論している時に、自分の論を正当化する為の道具として、この言葉を持ち出すのです

大体においてこの言い方を好むのは、言わば現代的進歩的な考えを持つ方が多い様です。
彼等は伝統や先人の知恵、功績等については概して否定的であり、現在生きている自分達の考えのみが正しいと信じておりますから、相容れない者に対しては極めて非寛容です

こちらが決して時代錯誤な事を言っていなくても、そこに少しでも伝統の香りを感じ取れば、それは彼等にとって「時代が違う」として断固排除されなければならない、許されぬ考え方としてしか映らないのです

私に言わせれば本当に哀れな連中です

伝統や古くから伝わる知恵や考え方は、現在に生きる我々に先人達が遺して下さった素晴らしい宝石箱ではありませんか

時代の厳しい風雪に耐え、徹底的に本質を追求しながら尚且つそれを超克して今なお燦然と輝き続ける伝統というものに、我々は敬意を払い、それを後世に伝えて行く義務があると考えますが如何でしょうか

第一、伝統が否定されなければならない様な取るに足らないものだとしたら、何故現在でも数々の古典芸術が多くの人々に愛されているのでしょうか

仏教、キリスト教、イスラム教が世界中で多くの信者を獲得しているのでしょうか

人間は伝統の力を借りずに今の時代を生きられるほど強くはないし、伝統を離れてしまうほど愚かでもないのです。
「時代が違う」という言葉を安易に口に出す者は、その事を理解していないとしか思えません

私の場合は「時代が違う」と言われたら
「うん、時代が違うよ。
だから?」
と答える事にしています。
そうすると相手は途端に腰砕けになり、何も効果的な反論等出来なくなってしまいます

当たり前の話です。
彼等自身、そんな反問を受けるとは予想もしていないし、事実受けた事もなかったのでしょう。
何より自分が言った「時代が違う」という言葉の意味を自分で理解していないのです

何だか相手を黙らせる事が出来る便利な言葉の様だから、という安易な気持ちで、意味も判らず使っていたに違いないのです。
私に反論出来た者が一人もいないのが何よりの証拠です

同様に「無党派層」なる言葉にも私は違和感を覚えます

前述した「時代が違う」とは異なり、言葉自体にはそれほど否定的な考えを持っている訳ではありません。
只、この言葉は80年代終りから90年代初めにかけて、既存政党を支持しない層が急増した事態を受けてマスコミが造った言葉なのですが、安易にこの言葉を使う方が増えているのが気掛かりなのです

ニュース番組等の街角インタビューで
「ええ、私は無党派層です」
と答えている方々の表情を見ると、明らかに誇らしげなのです

何か「無党派層」というものを、流行の先端を行く一種のモードかトレンドであるかの様な勘違いをしているのではないでしょうか


彼等の口ぶりや表情を見ていると、各政党の綱領やマニュフェスト、実績等を比較検討してみた様には到底思えないのですが……
以上の他にも様々な例がありますが、言葉の上っ面だけを撫でてみて、それを安易に使っている様というものは傍から見ていて非常に滑稽なものです

私自身も常にその事を肝に銘じる様、心掛けてはおりますが、所詮は私も弱い人間、気が付かない内に世間様に醜態を曝している事があるのかも知れませんね

最後に
流行りの言葉や決まった言い回しを使いたがる者達よ

お前らは本当にその意味を判って使っておるのか

そうでなければそれは唯の猿真似に過ぎぬ

人間ならば己の頭で言葉を紡ぎ出せ

それが出来ぬのならば、天才志村どうぶつ園で志村けん氏に遊んでもらうがよいわ


