喧嘩は自分から売ることは無いが売られれば買わないと相手に失礼だと思い、喧嘩も良くした。隣の県まで行ってクルマ中、血だらけでやっとのことで朝方帰って来たことも‥‥未だに怖い大阪の親戚の叔父でさえ俺がそのまま自動的にそのコースを辿ると思っていたらしい‥‥それにとても活字で書けない事も沢山有るがそれは今はヤメておこう‥‥。
  今にして想えばだが‥‥
 自分は高校一年の時、ある火事での人命救助で表彰された事がある。 ラグビー部のグランド整備にいつもより早く学校に向かってた朝だった。微かに風に乗って聴こえる‥‥声。
『助けてー』自転車を漕ぎながら廻りを見渡したが、よく分からなかった。
『助けてー』ん?
左手の田んぼの外れにある一軒家の屋根の上になにかの人影が視えた。でも何を助ける?
『助けてー』母親と子供みたいだ。子供が言うことをきかなくての助けてとの解釈をしたが、それにしては声が悲痛だった。もう一度しっかり屋根を観たら‥‥その四隅から煙が視え、自分は咄嗟に自転車を飛び降り田んぼを走っていた。少しハシゴを探してみたが判らない。母親は
『子供を投げるから受け取って欲しい』と二人の子供を受け取った。さほどの高さもない上、稲刈りも終わった柔らかい田んぼである。母親はそのまま飛ぶと思ってたが、
『私も受け取って!』えっ?とは思った。再び自転車に乗った頃には凄い火の手が渦巻き、消防自動車のサイレンの音が近づいてた‥‥立派な火事になっていたのだ。
 でその事がこの後の生きてく上での万能の|免《﹅》|罪《﹅》|符《﹅》を手にしたとどうも思ってた節がある。清水の次郎長は散々博奕を行い大喧嘩も繰り返してたが侠客として74歳迄もの非常に長生きした人生は若い頃に人助けをしてたからだと何かで読んだ記憶があった。だから、余計に派手な生き方にもなった。前述の叔父から北陸営業所を創るからそれをやらないか?と誘われたが人の造ったレールには絶対に疾走りたくはなかった。あくまでも自分が主体で何事もしたかった。だから自分でビル建材の会社を起業し従業員も雇い必死に働いた。実用新案だが特許も幾つも申請した。兎にも角にも全てが自分のやりたいように生きて来て、その時その場での少しだけ背伸びした高級車にも乗り、家二軒にあちこちの千坪の土地と最後に乗ったクラウンにしてもキャシュで購入したのだが‥‥魔が悪く創業から四半世紀を経過して突然に世界中に蔓延した長引くコロナで仕事は急速に枯渇した‥‥。徳が無いとはこう言う事を言うのだろう。
 高額でも欲しいと思った機械も女も粗方この手にして、そしてまた結局は、己の才覚の欠乏のせいでは有るのだが、その全てを毟り取られた‥‥。 思えば高校一年での人命救助で警察署長の横で卒業後の進路とかの和やかな話をし、お茶をご馳走になり、記念品と表彰状を貰いパトカーで家まで送ってもらった。その一年後の二年生の時には、喧嘩のカテゴリーから少し逸脱した事件で同じ署で取調べ‥‥『太陽にほえろ!』みたいな本当にマジックミラーがある部屋で調書の版で机をバンバン叩き、
 『向こう言ってる事と違うぞ!ラグビーのレギュラーなら仲間に迷惑掛けるのを何とも思わんのか!』(オイ、ちょっと待ってくれよ‥‥)
だった。結局俺は頭を丸坊主にして一週間の家庭謹慎になるのだった。まるで見事に天国と地獄なのだ‥‥