1922年6月18日(大正十一年)、ニューヨーク市ブルックリン区で貿易商の家庭で生まれたその青年は9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、あることがきっかけでフランス語、スペイン語など外国語の習得に強い興味を抱くようになったという。そのきっかけとは、
 ‥‥父に同行したフランスにて父の仕事仲間のフランス人の同じ年頃の娘と自動車の後部座席に座る事になった。が、娘は英語が話せず、私はフランス語が出来ず、ただ黙っているほか無かった。その車中で沈黙に流るる時間はとても落ち着かず、言葉が通じない経験は苦痛に満ちた。世の中には英語以外の言語があり、その言語を知らなければ眼の前に居る相手と意思の疎通が、出来ないということ。これが外国語を学びたいと初めて切実に思った時だった‥‥自叙伝より。
 とても利発で温厚なその青年は小学校、中学校、高校までを通じて成績は常にクラスで一番だった。
 そして世界恐慌の最中の彼が12歳の時2歳下の妹が急性呼吸不全で死去し、青年が15歳のときにラジオの部品などを扱う貿易商の父の仕事は大恐慌の煽りを食い仕事の規模を縮小しなければならず、程なく両親が離婚した。以後母とともに生活を営むことになり、経済的な困難にも遭遇したが、何度かの飛び級を繰り返す、ずば抜けた頭脳明晰なその青年はニューヨーク州最優秀生徒としてコロンビア大学のピュリッツァー奨学金を得ることになり、1938年(昭和13年)に16歳で同大学文学部に入学した。

 コロンビア大学に16歳で入学したわたしの隣にはアルファベット順での席順となり李さんという年上の中国人が座ることになった。毎週5回、朝8時から9時まで李さんの隣で講義を受け次第に仲良くなり、中国語も少し習いました。そしてある時に漢字を知り、それをもっと教えて下さいと頼みました。ただ彼は広東の人で、自分が話すのは広東語で標準的な中国語の発音は出来ないと言って漢字の発音は教えようとせず、意味だけを教えました。その為わたしは漢字の意味は覚えましたが、発音はさっぱり判らず、会話も全く出来ませんでした。ただヨーロッパの言語しか知らないわたしにとってこの世の中に『漢字』と言う文字が在ることを初めて知るだけでも素晴らしい事でした。例えば横に一本の棒を引いただけでOne、二本引くとtow、三本引くとThree‥‥この表意文字らとの出会いは面白くてわかり易い、兎に角衝撃的でした。また画数が多く複雑であれば有るほどわたしは興味をそそられ、文字の形がそのまま意味を表す漢字特有の表現にすっかり魅せられてしまいました。
 ‥‥1939年夏、李さんと一緒にニューヨーク万国博覧会に行き、輝かしい未来に触れる思いがしましたが、それも束の間、それから一ヶ月後にヨーロッパで第二次世界大戦が切って落とされます。また既に日中戦争は始まっており、アメリカでの日本の評判は最悪だった頃です。友人と出向いた万国博の日本館ブースで和紙の見本を始めとする珍しい製品や無地の黒い羽織の裏にとても繊細で綺麗な刺繍がされてるものに接したり、とても親切な日本館員にも会ったのですが、好戦的な国民という酷い評判との著しい落差にわたしはどうしても不思議な感じを抱かざるを得ませんでした。わたしは戦争が嫌でした。報道が伝えるのは戦争のニュースばかりで、わたしはそれが嫌で堪りませんでした。だから、漢字の勉強に力を入れ気を紛らせようとしました。
そして‥‥自叙伝より