どんなにAIや最先端技術の科学で宇宙や月の裏側に行こうともハンドルにも触れずに目的地に行けようとも‥‥なんら精神的次元向上などなし得て無いのだ。悲しいかな、和を以っての|志《こころざ》しが無いに等しいのであろう。だから、自己中的な争いから戦争が始まってしまう‥‥
 僕は歴史研究者でも宗教学者でもないのでユダヤ論争の詳細は、表面上しか知り得てないが‥‥一つ云える事が有るとすれば‥‥世界の殆どは唯一絶対神、それに比べこの国の神道は|八百万《やおろず》の神を|崇《あが》め奉る、多神教なので或る。この影響や違いなどは無いのだろうか?いや多分に有るのでは無いか?僕は決して多神教の日本こそが、秀でていると、述べてる訳ではなく、また唯一絶対神を決して卑下している訳でもない‥‥。それに、多神教‥‥そう言えば聞こえは良いかも知れない。が、裏を返せば無神論的な人種なのかもしれないと、思える程なので或る。きっと争いもなく永く続いた縄文時代は、今の時点の日本よりも一層その色合いが強かったと、思われる‥‥

『総てに於いて絶対神のアッラーが一番なのです、それ以外の神は居ません』
『いや愛が全てなのです、何と言ってもイエス・キリストなのです‥』互いを一切認めずして、排他して、押し付けるのは諍いの元で有ろう‥‥
 この国の大多数の宗教思想のように、あっ、ソレも良いね‥‥コレも在りだね、あの考えも良いよね‥‥
結果、宗教の神様だけに留まらず、山も岩も樹木も河も風も、聖なるものとして崇めている。そしてそれは、|″可畏《かしこ》きモノ″として、尊き存在や善いものだけでは決してなく、悪しきものも人智を超えた摩訶不思議な存在にも、で有る‥‥事の良い悪いは、傍らに置いて、実際にそうなのである。元旦に神社、寺での初詣から始まり、バレンタイン、七五三参り、ハロウィン、クリスマス等‥これ以上あえて触れないが、渾然一体とカオス化した|汎《あら》ゆる物が、もう少し踏み込めば、節操さえないような汎ゆるモノがここには或り、多くの場合、普通に接しそこに参加している。歴史的にも一般論としての日本人は緩いし、寛容で排他をしない‥‥しかし、そのことに外からの評価は厳しいものが多いのもまた事実。海外の日本人批判に有る、ジャッジをハッキリ云わない。顔はニコニコ微笑んで居るがハッキリしないその態度は得てして物議を醸している。しかし、あちらも立ててコチラもたててのイエス・ノーを云わない言葉等も意外とそんな神道の八百万的な処からきているのかも知れないのである。

 今、缶コーヒーを持つ僕の足元で秋の陽だまりで大合唱を奏でるこの虫の鳴き声、その音さえも世界で認識出来る民族は、日本人とポリネシア人のみであるという(ならばその二つの国のルーツを辿れば意外と‥‥)直ぐ近くの韓国人にしても中国人にしても認識を出来ないのだ。しかも我々はその虫の音を声や虫からの言葉として捉えている。それがわび・さびとなり、短歌、俳句にまでも文化として昇華させた民族である。
 |数多《あまた》ある民族でも日本人とポリネシア人の二民族のみが、虫の音色を言語系を処理する左脳で″声″として捉え、その他の大多数の民族は音楽を処理すると言われる右脳で聴くので、雑音にしか捉えられない‥‥
それは何故なのか?