19時、仕事が終わった。さて、どうしようか。

 「どうしようか」とはつまり、晩ご飯のこと。今日は12時に昼飯を食べた、今は19時過ぎ、そしてうちに着くのは何やかやで21時。ここで何も食べないで長く電車に揺られることは、今の私には到底耐えられない。でも帰宅したらシャワーの後には晩酌をするので、ガッツリ食うつもりもない。単純に「牛丼並!」とはいかないわけだ。それに人一倍食欲がある私は、意識してブレーキをかけないといくらでも食べてしまうだろう。

 幸いにも、ここは浜松町。ターミナル駅には負けても、それなりに選択肢があるのが有り難い。そして私の小遣いは少ないから、まともな店は端から選択肢にはない。今夜のところは、ウロチョロせずに「小諸そば」にするか。



 自動ドアをくぐると、そこはLEDの白い光で満たされた空間だ。今ではこれが当たり前になっているが、実は人間が生活する空間を白い光で満たすのは精神衛生上よろしくないらしい。古今東西、家の中というのは薄暗いものだ。古い家の中の薄暗い場所には、何かがいるような怖さが少しあって、それがいい味なのだと思う。我が家では照明はピンポイントで点けている。

 券売機の前に立ち、「もり」を探す、うぅ…… こういう券売機ではよくあることだけど、自分が食べたいメニューのボタンが中々見つからない。数十個あるボタンを順番に見ていく。これがもしお昼時で後ろに行列でも出来ていたなら、焦って適当にボタンを押して食べたくもないメニューを選んでしまっただろう。ああっ、ボタンを見やすいように並べ直したい! むー。

 やっと「もり」を見つけてボタンを押す。ここはSuicaやPasmoは使えないようだ。あまり取り出すこともなくなったがま口を出して、小銭を券売機に入れていく。当たり前の行為のようで、今ではこれさえも面倒に思える。完全キャッシュレスの、何もしなくても会計が済む時代まで生きられるかな?

 



 食券を店員に渡し、「そば」と告げる。考えてみれば、東京のこの手の店で「うどん」というお客を見たことがない。別にうどんもいいけれど、この店はそば一本でいいと思う。あ、そういえばお茶と海苔を同じ店で売っている理由がネットニュースに載ってたっけな……

 すると店員さんが
「これからそばを茹でるので、お席で三分程お待ちください」
と言うではないか! おおっ!

 小諸そばでは普通は茹でておいたそばを出す。そのストックが切れた時点でそばをまとめて茹でているのだ。だから茹でたてのそばが食えるかどうかは運次第であって、お客がタイミングを合わせることは不可能。今夜はついてるぜ、心の中でガッツポーズ。

 コップに水を汲んで席に着く。この店はそば湯を入れる容器も用意してあって、ポットからそば湯を入れて席に持っていくことができるが、私はしない。洗い物を増やすくらいなら、そば猪口を持っていって入れればいいと思うからだ。だからいつも、ポットの近くの席を選んでいる。

 店内に他のお客は少なく、うち一人はタクシー乗務員か。私も乗務員時代にはよくこういうお店で食事したな。このご時世だから苦労してるでしょう、私も震災の頃だったから大変でしたよ。あの頃はどうやって生活していたのか、よく思い出せない部分がある……

 



 と考えていると、店員さんがもりそばが出来たというので取りに行き、着席する。いつもの通りの、普通のもりそばだ。カウンターに置いてある容器からネギを取り、そば猪口に入れる、この閉じたままのトングはどうにかならんか? わさびも取り、そばの容器のヘリに付ける。



 箸を取り、そば猪口を持ち、箸の先にわさびを少量載せてそばの上に置き、その部分のそばを少なめに持ち上げ、下半分をつゆに入れて、一気にすする。
 ズッ!
 うんうん、美味い、茹でたてだしな。高級店のそばと比べたら可哀想だとしても、この店でこの値段でこれなら、中々なものだと思う。ここのはつゆは薄味で、そばは柔らかめなので、優しい味がする。そこへ加わるわさびがよいアクセントだ。

 昔は余所ではよくあったが、ここのそばはざるの上で絡んで一口分を持ち上げられないなんてことは決してない。商店街にあるような古いそば屋さんのもりそばって、何であんなに絡み合っているのだろう? あれは食べづらくて困る。

 私は昔はわさびをつゆに入れてかき混ぜていたが、人から教わって今のやり方になった。最初は半信半疑だったけど、やってみるとハッキリと違いが分かるから不思議だ。狭い口の中で、つゆとわさびがそれぞれ別に主張するようだ。大体、後でそば湯を飲むときに、わさびが入っていたら邪魔になる。

 おや、左のほうにいる背の高いお兄さんは天ぷらそばか。右手で箸を持ち、左手はカウンターに置き、顔を丼に近づけて食べて……まるで馬だな、箸の持ち方もデタラメだ。そういう親に育てられたんだろうなぁ、それじゃモテないぞ。 ……というのも余計なお世話か。

 



 などと考えながら食べているうちに、そばはなくなった。そば猪口を持っていってそば湯を入れて、のんびり飲む。はぁ、そば湯の温かさがいい、落ち着く。ここのそば湯は薄めだ。そういえば、本当にいいお店だとそば猪口は空で出してくれて、つゆを好きなだけ入れられるようにしていたりする。私の場合はつゆを少しだけ入れてそばを食べて、その後のそば湯を入れたときに濃くならないようにしている。ま、この店にそこまで求めることはないが。

 あと神田辺りのお店、例えばまつやとかだと、わさびは出てこない。長野県でもそうらしいが、そばの上に七味を振りかけて食べるのだ。温かいそばだと普通のことだけど、もりやざるでやると違和感はある。やはり慣れているわさびのほうが好きだ。


 さて、長居するような店でもなし、口を拭き、水を飲み、カバンを肩に掛け、お盆を持ってパントリーに下げる。このとき、
「ごちそうさん!」
と言うことは決して忘れない、相手は機械じゃないのだから。別に顔を覚えてもらって常連ぶろうだなんて思ってはいない、最低限の礼儀である。

 



 店を出て、肩に掛けたカバンを手に持ち替え、駅に向かう。美味いそばでお腹は落ち着き、いい気分だ。電車内で読む文庫本の続きが楽しみ。