母と別れたその日からの私は、決して母のことを口にしない子になった。ただしそれは、口にしないだけで、自分の中での問いかけは、長いこと続いた。本当は、誰かに聞いて欲しかったんだけれど、人に話してしまうと誰かが誰かは分からないけれど、泣いてしまうのではないかって子供心に思ったんだと思う。
母のところに行く前の私は、どうやら極々普通の子で、人のことなんかお構いなしの子で、よくこう言っては、
『お母さんは、ねえ、お母さんは』って、言いながらべそをかいては祖母を困らせていたらしい。いつだったか、祖母の何回忌だったか忘れてしまったけれど、叔母に言われたことがあった。この叔母は、父の一番下の妹で、私が祖父母の家に預けられた時は、まだ結婚をする前で何年間か、一緒に暮らすこととなった。この叔母も、私のことをよく可愛がってくれた。どこか旅行に行くと、色々なお土産を買って来てくれたりした。結構、私は、ものに釣られる子だったのかもしれない。
一番よく覚えているお土産は、叔母が東京に行った時のお土産だったと思うんだけれど、まだ私の周りでは持っている子がいなかったダッコちゃん、このお土産はちょっと鼻高々だった。なにしろ田舎なので、まだあまり見かけないころだったので、今は全国どこでも、同時に何でも手に入れることが出来るけれど、私が子供のころはかなり時差があった。
それと、このダッコちゃん、私の記憶違いでなければ、私にだけのお土産だったと思う、利恵ちゃんにはなかったはず、叔母は利恵ちゃんにとっても叔母なわけだから、私は心の中で、
『やった、さつきだけ』って小躍りしていたように覚えている。
きっと、私は子供ながらに、片意地張って頑張ってたんだと思う。だから、そういう時にはなんとも言いがたい、思いになったんだと思う。
そして、心のどこかで、お母さんがいる利恵ちゃんのことが、羨ましかったんだと思う、ただし絶対にそれは人に知られたくないって思っていた、特に利恵ちゃんには、どうしてかな年の近いいとこだからなのかな。
それとも何気なく、周りの大人たちが言う
『いとこ同士でも、片方は両親がねぇ。さつきちゃんは可哀そう』って、
私、可哀そうっていう言葉が嫌いだった。
まあ、利恵ちゃんは何も感じていなかったと思うけれど、そう利恵ちゃんは天真爛漫な子だったから、心の底から。
私はいろいろな場面で、あの利恵ちゃんの言った
『さつきちゃんが大人になったら、お爺ちゃんとお婆ちゃんの面倒を見るのよ』って言ったのが、心の中に渦巻いていた、大人になってそうすることが嫌ではないんだけれど、どうして利恵ちゃんに言われなければいけないのっていうのが、我慢できなかったんだと思う。そして、利恵ちゃんがそんなことを私に言ったということは、誰も知らないわけで、そういう苛立ちがあったのかも。
かと言って、そんな話をしていた叔父やおばが嫌いというわけではない。
大人から見ると、どうなのかなそういうのって、分かるものなのかな。
そんなことが理由ではないだろうけれど、叔母は、何回かに一回は、私だけにお土産を、買って来てくれたりした。もしかすると、それは祖母に頼まれていたのかもしれない。これは、今度叔母に会ったら、聞いてみよう。もうそういうことが、平気で聞けるようになったから。
祖母は、いつも気にしていたみたなのだ。私に母親がいなくて、淋しい思いをさせていないかとか、惨めな思いをしていないかとか、母親がいないことで虐められていないかとか。
そんなことを、気にすることはなかったのに、何故かというと、私はある意味鈍い子だったから。その、人が自分のことをどう思っているかとか、人が自分のことをどう言っているかとかが、気にならなかったのに。
あぁ、その利恵ちゃんが時たま言う、なんで私がなんだろうっていうこと以外はって、自分では思っていたんだけれど。
本当は、自分が気付いていないだけで、なんでも気にする子だったのかな、そして祖母はそんなところまで分かっていたのかもしれない。
なにしろ、祖父母の家に預かられてからは、何時でもどこに行く時でも、私は祖母の横に後ろにぴったりとくっ付いていた。よく言う、金魚の糞っていうのは、私のことみたいだ。
多分私は、一人になるのが怖かったんだと思う、なんだかおいていかれてしまいそうで、うーん、捨てられるって思った。私は母と別れる時、母に捨てられたんだって思った。実際、捨てられたんだろうから、だからもう捨てられてたまるかって思った。祖母は、そんなことをする人ではないのに、私は一度痛い目に遭ってしまったので、どうすると二度はないかを学習したんだ。その結果が祖母の金魚の糞のなるのがいいっていう、結論が出たんだあまり好ましくはないけれど。
つづく