吾亦紅

わが家に咲きました。なんとも地味な花です。

 

源氏物語に吾亦紅が出てきます。「匂宮の巻」です。

「薫の君が体から放つ匂いに負けまいと

匂宮があらゆるものを調合して薫りを作り出そうとします。

この取り得のない吾亦紅(我木香)を霜枯れするまで

いい香りが出ないかと待ってみる」と表現されています。

 

「吾亦紅」という題のいい歌を、“すぎもとまさと”さんがうたっています。

「~あなたに、あなたにあやまりたくて~おれ死ぬまであなたのこども~」

亡き母親にわびるしみじみと心に響く歌です。

 

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さて本題

「石山寺創建は楊貴妃の時代」

 

石山寺が創建されたころ大陸「唐」では玄宗皇帝と楊貴妃の

熱愛の物語がありまたその別れも痛々しい。

 

それは白楽天の長恨歌にうたわれている。

 

その漢詩が日本に伝えられ平安の貴族のの間で読まれる。

その詩を紫式部は完全に読解しその一片が源氏物語に

引用されている。

桐壺や夕顔の中に激しい恋慕をかわす男女をあらわす表現として

「比翼の鳥、連理の枝」として引用している。

それも片や唐の皇帝の恋、片や日本の天皇の恋(桐壺の巻)というのも

不思議な類似ではないだろうか。

 

紫式部の小説の題材の広さ深さに驚く。

 

そして紫式部が千年前に読んだという白楽天の詩を、今我々はいつでも目の当たりに

することが出来る。そのことは連綿と続く日本文化に胸打たれる思いである。

以下 詳細に述べたい。

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紫式部が石山寺において、寛弘元年(1004年)の旧暦815日に

仲秋の名月が湖面に映るのをみて「須磨の巻」の一節を想起したことが

石山寺縁起絵巻の中に記述されている。

 

この石山寺は良弁僧正によって747年に創建されたと伝わっている。

このあと大規模な保良の宮の建設(759年~)がはじまり

石山寺はその守護寺として発展する。

 

この同じころ中国は唐の時代で玄宗皇帝支配の末期にあたる。

よく知られる玄宗皇帝と楊貴妃の華やかな恋物語が安禄山の乱で

悲惨な結果となっていく。

この安禄山の乱は755年に起こる

やがて楊貴妃は殺され、皇帝は落ちのびていく

 

この経過を白楽天は810ころに異例に長い百二十句の詩で表している。

長恨歌である。それは日本にも伝えられ貴族の間で読まれるようになった。

もちろん男性貴族達である。しかし紫式部もこれを読み理解していたのであろう。

 

それも源氏物語の初期の「桐壺の巻」の中でである。

そして彼女はその長恨歌のうちの句を源氏物語に引用しているのである。

 

◆まず楊貴妃の美しさの形容は

長恨歌で「太液芙蓉未央柳 芙蓉如面柳如眉」の部分である。

その解釈「太液(玄宗皇帝の宮殿にある池の名)の蓮の花は

楊貴妃の美しい顔のようであり未央(同じく宮殿の名)の

柳の葉は眉のようである」と表現されている。

(遠藤哲夫 旺文社「語法詳解 漢詩」 を参考)

 

源氏物語「桐壺」では更衣桐壺の美しさをたたえるのに比較引用される。

太液の芙蓉未央の柳も、げに、かよひたりしかたちを

~うるはしうこそありけめ、

~はなとりの色にも音にもよそふべきかたぞなき。」

 

谷崎源氏訳では「太液池の芙蓉や未央宮の柳によく似ていたかの妃も

さぞ美しかったでしょうが~なつかしくも愛らしかった御息所は

花の色にも鳥の音にも何として比べられましょうぞ。」としている。

 

(次いで玄宗皇帝は亡くなった楊貴妃のことを思う場面で)

長恨歌では→

 「~天にありては願はくは比翼の鳥と作(な)り、地に在りては願はくは

連理の枝と為らんと~」

(~在天願作比翼鳥 在地願為連理」~)

 

その解釈比翼の鳥とは片目片翼の鳥で二羽寄り合って

はじめて飛べるように、また二本の枝が合わさって一本の枝にも

なるべき二人なのだ」

(と玄宗皇帝はむかし楊貴妃とかわした誓いを思うのであった。)

 

源氏物語では (帝は朝晩口癖のように亡くなった桐壺を思い)

「はねを並べ、枝をかはさんと契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、

尽きせず、うらめしき。」としている。

 

これを谷崎源氏訳では「朝夕の睦言に、『天にあっては比翼の鳥、地にあっては

連理の枝』とお約束をなされたことの、空しい夢となってしまった

はかない運命の限りない恨めしさ。」としている。

 

すなわち「比翼の鳥~」を源氏物語では紫式部は和やらかい

日本語に置き換えていいたのを

谷崎源氏では長恨歌の原文に戻して解釈している。

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長恨歌が日本へ紹介されて紫式部も男性貴族にまじって読みそれを理解する。

源氏物語の早い段階の桐壺の巻で「帝と更衣桐壺の熱愛の様子」の表現に

長恨歌の句を引用したのであろう。

 

長恨歌の作者・白楽天は772~846年の人。三十五歳(807年頃)の作と言われる。

長恨歌は長いので三つの段落に分けられることが多いようである。

一例として

第一段 楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛をうけるが、安禄山の乱が起きるまでが、

第二段 反乱軍に追われて玄宗が落ちのびる場面を、

第三段 玄宗が亡くなった楊貴妃の魂を求める場面

(遠藤哲夫 旺文社「語法詳解 漢詩」 を参考)

 

日本へ伝えられたのは白氏文集として承和年間(834848以降

ではないかとWikipediaにはある。

 

紫式部日記が1008年(寛弘五年)から1010年ころに書かれている。

その後半部分で他の女房達から「漢字の書まで読んでいて、

お高くとまっている」などと言われている事を気にする、

そこで彼女は漢字の「一」の字も書かないように決心したと

述懐しているのだがそれは日常生活の場だけであったのだろう。

(以上)