独言居士2、「また八月がやってくる」

 

ご訪問

ありがとうございます

 

歳をとって独り言が多くなってきました

独言居士というテーマで

何か書いてみます

老人の繰り言です

読み流してください

 

第二回は

「また八月がやってくる」

 

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***また八月がやってくる***

 

日本では、毎年8月に先の戦争についての話題が多くなります。

私もご多聞にもれず、毎年8月には戦争について考えることが多くなります。

先の戦争とは、大きく見ると第二次世界大戦をさし、連合国側と枢軸国側の戦争ですが、日本の戦争という面で見ると、日中戦争と太平洋戦争(大東亜戦争)と言うことでしょうか。

大東亜戦争という言い方は、太平洋諸国で戦った日本のプロパガンダ的名称だと思われますが、連合国側(植民地を持っていた国々)にとっては第二次世界大戦での一局面と捉えられていて、ファシストとの戦い(正しい戦争)だと宣伝されました。

戦後の日本は連合国の思惑(エゴ!)に翻弄され続けていますが、他国のプロパガンダに左右されない「歴史検証」が急務であり、戦後70年以上経った今、歴史の事実を発信しなければならないと思っています。

 

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***平成28年8月8日***

 

さて、今回は先の戦争についてということではなく、平成28年8月8日に放送された上皇陛下の「お気持ち」表明について改めて拝聴し直し、少し考えてみました。

 

以下は宮内庁HPにある動画とお言葉の全文をです。

(画像にリンクあり)

 

戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。

私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。

本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 

即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。

 

そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。

 

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間かん私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

 

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

 

始めにも述べましたように,憲法の下もと,天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。

国民の理解を得られることを,切に願っています。

 

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***象徴天皇のあり方***

 

なぜ今回、上皇陛下の「お気持ち」表明について書いてみたのか?

先の戦争と皇室との関係は切り離せないことですよね。

今世界各地で戦争が起きている中、令和の御世に暮らす我々は、現実に存在する皇室にどう向き合えば良いのか?なんていうことを考えたんです。

皇室とは過去の歴史に過ぎない、と割り切るのは簡単ですが、上皇陛下のお気持ち表明は、退位のお気持ち表明とともに「象徴天皇のあり方」を最後に語られたことに大きな意味を感じました。

上皇陛下は、父親としての昭和天皇の生き様というか、終戦直後の大混乱期をともに生きてきた中で、「象徴天皇とは?」、ということを常にお考えになっていたはずです。

昭和天皇は象徴天皇について試行錯誤とお苦しみの中で、象徴天皇について指針はお示しめしになられたと思いますが、上皇陛下はある意味象徴天皇を「体現」したんではないでしょうか?

 

女性天皇などの話題が取り沙汰されて久しいですが、今の時代は天皇のあり方そのもの(天皇の定義とか存在について憲法上の議論以外に)が問われる時代になっていると思います。

どうあるべきか?というのは、人それぞれの受けた教育や立場とかで異なるのはもっともですが、もう少しニュートラルな形で考えられないものでしょうか?と私は思うんですね。

大変難しいですけど・・・

 

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***天皇存在の本質***

 

大きな表題を出してしまいましたが、天皇って何?みたいなことに、どう答えるかってことで簡単に書いてみます。

 

神武天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)から続く万世一系の家柄、国体、国柄とか色々表現はありますが、私は

「祈る人」

であると思っています。

 

日本の政治を皇室が担っていたのは、さほど長い期間ではなかったんですよね。

武家が政権を取ってから皇室は政治の表舞台には出てきません。

明治、大正、昭和の御世も天皇親政は建前で、実際は「君臨すれども統治せず」という立憲君主制でした。

昭和天皇はこの立憲君主制に特に拘った方です。

 

では武家政治の世の中での天皇の立ち位置はどうであったかというと「権威者」だったんです。

日本人の知恵というか古代からの宗教観というか、そんな中で「権威」と「権力」を分けて考えたんですね。

外国で天皇をエンペラーと表現しますが、ちょっと違うんですよね。

西洋諸国の皇帝は政治の主宰者であると同時に、宗教の最高主宰者でもあったので、天皇は「テンノウ」であって「エンペラー」ではないと思うんですよね。

 

「祈る人」というのは単一の単純な宗教主宰者として見るのではなく「八百万の神」的宗教観での「祈る人」です。

そしてこの「祈り」は神恩感謝の一点に捧げられるものです。

ちょっと本題から外れて宗教論に依ってしまいましたのでこの辺で。

 

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***私が見た涙の動画***

 

最後にもう一つ動画とお言葉全文を見ていただき終わりたいと思います。

ご感想などありましたら、コメントしてください。

(画像にリンクあり)

 

この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして台風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が一日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。

 

 ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年、昭和天皇の名代として、伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。

 

 今年も暮れようとしており、来年春の私の譲位の日も近づいてきています。

 

 私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。

 

 第2次世界大戦後の国際社会は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。

 

 しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多数の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。

 

 以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年、18歳の時に成年式、次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠(たいかん)式に参列し、その前後、半年余りにわたり諸外国を訪問しました。

 

 それから65年の歳月が流れ、国民皆の努力によって、我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が、昭和43年に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。

 

 そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています。

 

 そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。

 

 次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火、平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成7年の阪神・淡路大震災、平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。

 

 障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。

 

 今年、我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各国を訪れた際には、できる限り会う機会を持ってきました。

 

 そして近年、多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら、それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各国から我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また、外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め、各国との親善友好関係が進むことを願っています。

 

 明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出会い、深い信頼の下、同伴を求め、爾来(じらい)この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。

 

 天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労(ねぎら)いたく思います。

 

 そして、来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。

 

 今年もあと僅(わず)かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。

 

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私は、皇室に対し(特に昭和天皇)崇敬の念が強く、少々偏った見方になりがちですが、上皇陛下の会見を見るにつけ、涙を禁じ得ません。

バイアスのかからない見方で、これらのお言葉に接した時、皆さんは何を感じるでしょうか?

私の涙の理由に、思い至っていただければ幸いです。

皆様のコメントお待ち致しております。

老人の繰り言にお付き合いくださり、

ありがとうございます。

 

独言居士のテーマでは、

日頃思うところを、

書いていきたいと思っています。

 

相変わらず「予定は未定」のブログ(泣;)ですが、またお立ち寄りいただければ幸いです。

 

ご訪問ありがとうございました。

 

記:現役老人

 

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