1929年 10 月24日の木曜日、ニューヨークで世界を震撼させる事件が起きる。暗黒の木曜日と言われるニューヨーク株式市場の株価大暴落である。たった一日で30億ドルが失われた未曾有の大暴落は、アメリカ経済に大きな衝撃を与えた。このためアメリカは、大恐慌に見舞われ、4年間で総生産は半減し、25% の労働者がその職を失う。しかし、この事件の直前迄は、株価は上がり続け、人々は好景気が永遠に続くと信じて居たのである。 そして株の取り引きで莫大な利益を上げて居た二人の相場師逹が登場していた。あのケネディー大統領の父親、ジョセフ・ケネディーがその一人であり、新進気鋭の相場師と言われた彼は、莫大な資金を投じて利益を上げ、ケネディー財閥を誕生させる基礎を作っている。もう一人は、ウォール街の王様と言われていたジェシー・リバモアである。彼は独自の情報網で暴落を予測し、巨万の富を得る。株式市場が過熱して最高値を更新する中、この二人はいち早く市場の崩壊を予測していた。そして夫々のやり方で暴落に対処して成功するが、その結末は全く対照的であった。


ニューヨークのマンハッタンは、今も世界経済の中心である。ここにエンパイヤーステートビルを始め、巨大なビル群の建設が計画されたのは、1920年代の初めである。この時期の米国は、空前の好景気に沸いていた。それは第一次大戦で疲弊し、不況に陥った欧州に代わって米国には多くの富が流れ込んだからである。人々は音楽や踊りなどの娯楽に酔い痴れていた。ニューヨーク証券取引所には、米国のみならず欧州の資金も集まって来た。株価は年々上がり続け1920年代の半ばには、10年前の2倍になって居た。当時の花形株の一つが、1926年に創設したばかりのRCAラジオ株である。当時は流行始めの電気製品が家庭に入り大人気を博し、この関連の新興企業株が高値を付けて相場を引き上げていたのである。
このRCAラジオ株を狙って大儲けしたのが、ジョセフ・ケネディーである。ボストンの銀行家の家庭に生まれたジョセフは、造船や映画産業などの多彩な事業展開によって財産を殖やして行った。1923年、彼は豊富な資金を持ってウォール街に乗り込んでくる。そして1928年 3月、仲間を集めて1300万ドルの資金を用意してRCAラジオ株の買い占めを図る。たった一日で、39万株を買うと言う大量取引のため、株価は74ドルから91ドルに跳ね上がる。これを見た一般投資家が追従したため、翌日には109 ドルになる。株価が上がり切ったと見たジョセフは、一転して全ての株を売り払った。こうしてジョセフは、二日間で500 万ドルを稼ぎ出したのである。こうした買い占めのやり方は勿論現在では違法なものとして禁止されているが、彼は『市場で儲けるのは簡単だ。法律で禁止されそうなことを禁止される前にやれば良いのだ…』と言ったと伝えられて居る。


その頃、もう一人の相場師ジェシー・リバモアもウォール街の王様の名を轟かせていた。貧しい移民の家庭に産まれた彼は、証券会社の黒板書きの仕事に携わりながら資金を溜めて株取り引きを始め、1920年代には既に多額の財産を築き、世界の5か所に別荘を持つようになっていた。遊び好きで派手な彼の暮らし振りは、相場師たちの憧れの的となる。 彼は5番街のビルの最上階に特別の事務所を構え、長年の経験がもたらした独自のノウハウを基に、極めて大胆な株取り引きをやっていた。彼の最大の武器は情報であり、株価情報を分析するスタッフも揃え、全米の取引所を結ぶ専用電話も設置して居た。その上、当時開始された国際電話も駆使してパリ・ロンドンの市場状況も逐一掴んでいる。彼の手法は、こうした情報による『空売り』である。1907年10月、彼はユニオン・パシフィック鉄道を中心に鉄道株を大量に空売りする。それによって鉄道株は下落する。誰も彼が売る以上に買うことができなかったからである。彼は下がる前の当日の価格で売りまくり、後日下がり切ったところで最低の価格で買い戻すのである。株が下がれば下がるほど彼の手元には利益が転がり込む。この取引では100 万ドルが彼の手元に入った。この時の新聞にははっきりと『株価の下落はリバモアの仕掛けであると推測される…』と載り、空売りの名手との異名がつく。

 

大暴落4か月前の1929年6 月、狂乱に近い株価高の中でリバモアは、株価が下がるとしたら、それは外国から流れ込んで居る資金が流出する時であろうと考えて居た。この時期の米国は大衆消費社会であり大量消費は美徳であったし、大衆は相場師のやることを見ながら株に群がっていた。株取り引きのためのティッカーと言う機械が出現し、電話回線で取り引所と繋がり、最新の価格をテープに打ち出すものであり、初めは取引所にしかなかったが、やがて急速に普及し、映画館の入り口や食堂などにも設置されて、誰でもがそれを見ることができるようになり、大衆の投資熱を益々高めた。やがて大衆は借金をしてまで株を買う者も多くなる。彼等の多くが利用した物に、高利の『ブローカーズ・ローン』があった。このローンの仕組みは、手持ち資金の10倍の株を買う事ができ、その株が値上がりすれば、当然利益も10倍となる。しかし、万一株が下落すると損失も10倍になり個人は、たちまち破産すると言うリスクを持っていた。

 

リバモアは、この時期、暴落の兆しを新聞記事から発見する。それは政府の中央銀行が増大するブローカーズ・ローンに警告を出した記事であった。1920年に10億ドルのローンは、1929年には80億ドルになって居たからである。彼は株が下がればローンが破綻し、大暴落になると予測する。しかし、この彼の予測をよそに、市場はまだ 7月には上がり続けて居た。専門家や評論家も先行きの展望ではなく、今現在の高い相場の解説や説明ばかりやるようになってしまっていた。それがさらに大衆を引き込んだとも言える。
8 月になっても上昇は止まらなく、著名な経済学者のフィッシャーまでが市場は安泰であると言い出し、9 月 2日市場は史上最高値を記録している。

 

ケネディーはさすがに暴落の気配を感じとり、大衆が狂乱しているときに、手持ちの株を全て最高値で売り払い、市場からの撤退を証券界者に通告した。彼の感では、大衆が取引だけで無く、株の予想までするようになったらお終いだと言う事であった。
9 月 4日、リバモアも独自の情報網から、英国の中央銀行が国外流出した資金を呼び戻すために金利を大幅に上げるとのニュースを掴んだ。彼の考えではヨーロッパの資金がより高利を求めてウォール街から出ていけば、ニューヨーク株式は暴落する筈というものであった。9 月26日、英国中央銀行はリバモアの掴んだ情報の通り金利の値上げを発表する。それは米国の6%を上回る6.5%であった。その結果ニューヨークの資金は、ロンドンへの移動を始める。リバモアの予測どうり、資金の流出は直ちに証券市場に影響し始め、10月に入ると株価が小刻みに下落し始める。リバモアは再び空売りを仕掛けながら暴落の時期を待つ。一般投資家にも少しずつ先行きへの不安が広がって来た。

 

10月22日、ニューヨークを代表するJ.Pモルガン銀行は大統領に経済レポートを提出し最近の株式市場に対して懸念を示しつつも『我々は世界で最強の富と確固たる未来を持っている…』としたので、一般投資家の間には楽観ムードが伝えられた。
しかし、翌日の23日には、新興企業を中心に軒並み20ドル前後の下落が起こり、通常の倍の売りとなった。10月24日、早朝から不安に駆られた大衆がウォール街に溢れて居た。もしもこの日も前日に続いて下落すれば、ローンを多額に抱えた一般投資家は確実に破産するからである。リバモアは、運命の時の到来を感じて事務所で緊張し、全てを売り払って相場から撤退したケネディーは、最早関わり合いのなくなった市場の動きを自宅で見守って居た。
午前10時、大衆の見た取引所は異常に静かだった。取引が開始されて初めは、前日に下落した石油株や自動車株に買い注文が出て、株価は回復するように見える。10時25分、自動車最大手のゼネラル・モータース株に125 万ドルの大量の売りが出て、持ち直しの希望は破れた。10時30分、株価は全面安に転換して走り出し、僅か30分間で一日分相当の株が売られた。凄まじい暴落の模様はティッカーに打ち込まれて伝えられ、午前11時それを知った大衆投資家5.000 人がウォール街を埋め尽くす。皆が何かを叫び警官隊も整理に出動するが下落のスピードに大衆は付いて行けない。パニックである。

 

リバモアは空売りを続けていた。昼頃、暴落の事態を深刻に受け止めたニューヨークの銀行連合が資金を投入して株の買い支えを決定し、午後1 時30分、買い支えを実行に移す。この結果、株は一時回復を示し始め暴落は静まったかに見えたが、株価回復を伝えるはずのティッカーが、それまでの余りの急激な大量情報処理でパンクしていてこの回復を大衆に伝える機能を発揮できなかった。そして終了間近に再び大量の売りが殺到して、銀行の買い支えは波に飲み込まれて終った。午後3 時、この日の取引は終わる。売られた株は通常の三倍に達し、一日で国民総生産の3%に相当する30億ドルが失われたのである。
リバモアは空売りで数百万ドルの利益を得たが、彼のように儲けたのはごく僅かである。取引時間が過ぎた後も、破産した人々が証券会社の前に押しかけていた。    

この5 日後の29日、さらに大きな暴落が襲ったが、流れの変わり目と言うことで24日の方に『暗黒の木曜日』の名が付いて居る。

 

この翌年、金融不安を引き金として大恐慌が起きる。物価は激しく落ち込み米国民の25% が失業したと伝えられる。バリモアは、大暴落で巨万の富を得たものの、その後の取引は失敗続きで3.000 万ドルの損失となり、1940年11月破産した彼は自らの命を拳銃で絶つ。1933年、大恐慌の最中に行われた大統領選では不況打開の秘策をひっ提げてルーズベルトが当選する。このルーズベルトの選挙資金を出したのが、もう一人の引退した相場師ジョセフ・ケネディーであった。これを機会にケネディーは政治活動に乗り出し、1938年には英国大使としてロンドンに赴任する。彼は大使と言う地位を生かして情報を集め、ヨーロッパの証券市場で莫大な利益を上げている。その後のジョセフは、息子のジョンを米国大統領にするために、その莫大な財産を使うことになる。

 

大恐慌は世界中に波及する。米国が自国の産業を守るため高率の関税を掛けて国際貿易を大幅に縮小したからである。経済危機のドイツでは失業者が3割に達し、その大衆の不満を背景にしてナチスが台頭し、対外拡張政策を採るようになる。
日本でも輸出が大きく減少し、農産物の価格が下がる。政府は立て直しを図るが、軍事費の増大に歯止めが利かなくなり、戦争への道を歩むことになる。
1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦の幕が切って下ろされ、やがて米国も参戦、この軍需景気によって米国の産業は再び活気付くが、株式市場が回復して暴落前の水準に戻るのは暴落から25年後の1954年の事である。