このとき。


 

 

 

あぁ、、

 

私、

 

ぐらぐらだ。

 

 

 

必死こいて

大きなもの、

大きなことを

 

成そうとしてるのに、

 

成していきたいのに、

 

 

足元、

 

ふらつきまくりだ。

 

 

土台が

 

ふにゃふにゃだ。

 

 

 

土台、牛乳プリンだ。

 

 

 

ここからどうあがいても、

どんなに大きなものを建てようとしても

するんと滑り落ちてしまう。

 

 

 

 

今までさ、

 

牛乳プリンの上に六本木ヒルズ建てようとしてたんだな。。。。。

 

て思ったね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(なんかかっこいい画になってテンション上がるアップ

 

 

 

 

 

 

はたして土台は牛乳プリンなんだろうか?

 

もうちょいしっかりしてる

ガトーショコラなのでは?(え?)

 

 

 

 

 

今までも、土台ふにゃふにゃなの、気付いてた。

 

気付いてて

25年間ぐらい知らないふりしてたのは、

 

 

知るのがこわいからだ。

 

 

 

 

でも、知るのがこわい、とか言ってられない。

 

やりたいことを思い切りやるために。。

 

 

 

 

土台牛乳プリン状態は、

弱ったとき、凹んだときになる。

 

やりたいことをやるのに、

いちいちふにゃってらんないでしょえーん

 

 

 

 

何を知るのがこわかったの?

 

お母さんは幸せだったのかどうか、が知りたいし、

知るのがこわい。

 

物語が進んでしまう気がしてこわい。

 

 

 

 

 

お母さんは不幸だった。

なぜなら不機嫌だから。

 

 

 

ていう

 

子どもみたいな方程式が

弱ってるときには出てくる。

 

 

 

お母さんは不幸だった。

なぜなら不機嫌だから。

 

 

なぜなら私が力不足で、

お母さんを幸せに出来なかったから。

 

 

こんな私は、

お母さんすら幸せにできない私は、

私のことすら幸せにできないし

周りの人も幸せじゃないし

 

いつだってどこだって

力不足で出来ない私なんだ。

 

これが私だから。

 

わかったか!えーん

 

 

 

 

こういう叫びを常にかかえてて、

弱ったときに警鐘のように叫びが鳴る。

 

 

 

 

こんなん思うなんて、

 

かっこわるい。

恥ずかしい。ショボーン

 

 

て思いが、

 

小学生の私にもあったから

 

向き合おうとか、問い詰めようとか、

そういう機会をつくってこなかった。

 

 

つくってこなくて当然だと思うし、

そこは凹まなくていいよ。

 

 

 

 

ただ、今になって

向き合う気になったんだ。

 

早くも遅くもなく今なんだ。

人に決められた今じゃなくて

自分で決めた今なんだ。

 

 

 

お母さんは不幸じゃなかったのではないか?

 

お母さんは不機嫌じゃなかったのではないか?

 

 

 

という望みに近い設問をかかえ、

週末を迎えることになる。

 

 

右矢印(つづく)

 

 

 

 

(かっこいいからもう1回貼っとこう☆)

 

 

 

 

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