「焼かれたCD」 第二話 | 月下の調べ♪のステージ

「焼かれたCD」 第二話

第二話「同棺された品々」

 

警察からの話として、母からその時聞いたことを総合するとこうだ。

 

あの女が殺された時間帯はゆうべの真夜中0時前後。殺害現場は自宅(一戸建て)の一階台所。出歯包丁のようなものによる刺殺。物音に気付いたのか、恵理子の娘が現場で動かぬ母親を発見して、あまりに大声で泣き叫んでいたので、不審に思った近所の方が様子を窺って事件が発覚。特に物盗りの形跡なし。大体そんなところ。

 

 

いかにも怨恨殺人っぽいじゃないか。ますます厄介だ。

 

 

厄介とは、僕に嫌疑がかかるのではないか、ということなんだよ。そのうち僕のところにも警察から電話がかかってきたり、アリバイがはっきりしていなかったら出頭しろなんてことになりかねない。運悪く、昨日と今日は会社に行きたくなくって、休暇でずっと部屋で過ごしていたもんだから、他の知り合いと全く会っていない。いくら今東京に居るとはいえ、これって厳密には僕のアリバイがないことになるんだろ?苦労して就職できたばかりなんだし、もし会社に悪い印象をもたれて、末はクビなんてことになったら、世は就職難がはじまったというじゃないか、勘弁してくれよ。

 

さらに悪いことに、動機ととられかねないトラブルを僕は起こしてしまっていた。父が死んだときの、葬式当日での出来事にさかのぼるんだ。つまりこういうことだ。

 

あの女、恵理子は父の後妻で、今は立花恵理子となっている。もはや「享年」というのかな、確か32歳になっている。彼女が28歳のとき父の子供を身篭っていることが発覚。父と母の間にはこの前からあの女のことでいさかいが続いていたが、父はこれを契機に母と離婚し、恵理子とすぐさま再婚した。子供は翌年女の子として産まれ、もう3歳になっているが、僕は一緒に暮らしていないのでこの子のことはよく知らない。妹、という実感もない。ただこの子にとってみれば早くに両親を亡くしたということになり、かわいそうな気もする。

 

僕の父、立花康志が亡くなったのはつい半年前。暮れが押し詰まった平成5年の12月のことだ。葬式が行われたのも旧年中で、大学の卒業研究の重要な実験スケジュールを邪魔されて迷惑したことを覚えている。そうでなくても、8ヶ月に渡る父の闘病生活には、入院先であるがんセンターとたまたま同じ福岡に住んでいたということで、介護にかなりの労力を提供させられたのだ。

 

実家から通うにはちょっと遠い福岡の芸工大には、僕はキャンパスの近くで一人暮らしをしながら通っていた。父と母の離婚調停の際に慰謝料の条件には含められなかったことだが、僕が3年生を終えるまで父のほうから仕送りは続けられた。仕送りは親として当然のことだと思っていただけに、4年生のときは父の看病と卒業研究、そして父の入院と同時にカットされた仕送りを補うためのバイトと、慣れないことが一気に押し寄せてきて、僕は正直へとへとになった。少なくともそれまでのように自由に遊べなくなったし、たまに徹夜も交えながらの日々は、当時21歳の僕にも体力的に厳しかったし、なにより精神的にも救われるものが何も無くて辛かった。

 

 父の臨終のときはさすがにちょっと感慨深いものがあったけど、通夜や葬式のときは、やっと終わった、楽になれる、こいつらと付き合うのもこれで最後だ、つまりやれやれという感じで、悲しい気持ちはもはやこみ上げてこなかったんだ。弔問には父の縁故の方々や講師時代の同僚の先生方や教え子さんたち、お世話になったと言う父の患者さんたちやら、とにかく大勢訪れた。お参りを済ませた方達は、喪主のあの女と一応形だけは並んで座った僕に、それぞれの慰めの言葉をかけ、涙ながらに昔話をはじめるおばさんや、果ては隆志くんかわいそうにとおいおいと声をあげて泣き出すおじさんまでいたりした。しかし事情をいまさらこの場で説明するわけにもいかないし、僕はかえって気の毒なくらいで、返す言葉と表情にえらく困ったものだ。

 

 正座が苦手なこともあっての長く辛い時間帯もやっと終わり、ついに納棺のときがきた。納棺の時には故人が生前大切にしていたものを同棺してあげるものだが、僕が入れてあげるものは何も無かった。父は離婚のとき、いわゆる自分のものはいっさいがっさいを全て僕の実家から持ち出していった。置いていったものといえば、離婚調停の条件となった実家の一軒家以外には、新居で置き場に困りそうなピアノくらいのもの。愛用のステレオセット、仏壇から、使いもしない将棋盤と駒、もはや読めない美術写真集に至るまで、つまり価値が認められるものはほとんど全て、これはオレが買ったものだからと言わんばかりに無くなっていた。だからこの時は、何か入れてあげたい気持ちがたとえあっても、僕の手元には何もなかったんだ。その務めは、あの女が受け持った。

 

愛読書や書きかけの論文と思われる点字の書類に続いて、入れようとされた治療器具は金属製で焼却できないと葬儀社の方からストップがかかった。それではと、線の部分に樹脂を盛ってある特注の脚付き三寸の将棋盤や、金属の点が打ってあるこれも特注の将棋駒が入れられようとしたが、将棋盤は大きすぎるからとまたもストップがかかり、駒だけが入れられた。あの女の非常識さをさらけ出したみたいでザマ見ろという気持ちと、父は将棋をしばらくやっていないはずで、そんなことも知らないのかという優越感から、僕はあの女をふふんと笑ってやった。そしてやはり、続いて出てきた僕にとっても懐かしいもの。それはクラシックのCD達だった。

 

ベートーヴェンは父が選んだもので、交響曲とピアノソナタの2枚。モーツアルトの弦楽四重奏。中村紘子のピアノも父の好み。ホロヴイッツの鋭くて豪快なショパン、多重旋律が豊かに重なり合うグールドのバッハ、これらのピアノ曲集は僕と一緒に選んだものだ。いずれも僕は、実家にいた高校生までの間にそれらを充分何度も聴いていて、しかしまるで幸運の連続だったように銘盤ばかりでちょっと未練もあったけど、まあ仕方ないかと棺にそれらが納められるのをただ見守った。

 

つまり、ここまでは僕は冷静でいられたんだ。次に出てきたあの一枚のCDを目にするまでは。