ウィングカーから、フラットボトムへと変わり、だんだん自分のストライクゾーンからは外れていきますが・・・

ティレル012

1983 #3 M.アルボレート
    #4 D. サリバン


ティレル・012(Tyrrell 012)は、モーリス・フィリップを責任者として設計されたF1マシンで、1983年シーズンから1985年シーズンにかけてティレルチームが使用した。
012は勝利を挙げることはできなかったが、ティレルチームは1983年にコンストラクターズランキング7位(12ポイント)、1985年が同9位(4ポイント)となった。1984年マーティン・ブランドルアメリカ東GPで2位、ステファン・ベロフモナコGPで3位の活躍を見せるも、チームの不正(水タンク事件)によりリザルトを全て無効とされた。

ウィキペディアより引用

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カウルじゃなく、モノコックに直接カラーリング(ラッピング?)。


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M.アルボレート

イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。

F1カーがまだマニュアルトランスミッションを採用していた頃、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリの低迷期が重なってしまい、成績そのものはさえなかったが、ドライビングテクニックを評価する声は多かった。

また非常に義理堅い人物であった。フェラーリで活躍していた1986年当時、ボロボロのホテルに入る所を川井一仁今宮純が目撃。アルボレートはこのホテルにわざわざご飯を食べに来たのだと言う。ホテルの女性オーナーも「あらミケーレ!よく来たわね!」と喜んでいたという。アルボレートは昔、このホテルには何度も来ていたのだという。

フェラーリを去った後も「コマンダトーレの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたミケーレ・アルボレートが、アウディのル・マン24時間レース事前テスト中に事故死した後、事故後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。

ウィキペディアより引用

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APロッキード製キャリパー。
4ポットじゃなくて2ポットなのね・・・

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テールエンドのパイプが上を向いてるのは空力を意識して???

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おなじみ『ベネトン』のタコマーク(笑)


つづく


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