関白殿下は会津に入られた。
伊達政宗が臣従を果たした今、わざわざ関白自ら奥州に向かうとは思っていなかった。
しかし、伊達政宗を油断ならないとみた殿下は自ら出陣することによって伊達を威嚇するおつもりなのであろう。
小田原をはじめ、北条の旧領はほとんど徳川家康殿に与えられることとなった。
代わって徳川殿の旧領を織田信雄殿に与えられるはずだったのだが、織田殿はこれを拒否した。
尾張と伊勢を出たくなかったのと、臣下であったはずの豊臣家から拝領するのが嫌だという気持ちもあったのかもしれない。
しかし、関白殿下はこれを許さず、織田殿の尾張と伊勢まで奪い下野に追放となった。
その結果、徳川殿の旧領は細かく分けられ、豊臣の直臣に与えられた。
上杉への恩賞はなく、奥羽征伐の後に改めて言いわたすとの事であった。
その際に言われたわけではないが、景勝様と私は、京に妻を送る事を決めた。
関白殿下は、まだ我らを信用しきっているわけではないと感じたためである。
船は景勝様の御台様を護衛するのだと言って京に行くことを喜んで受けてくれた。