爆心に最も近い学校

本川小学校は原爆ドームの西側約200m位の所にあります。ちょうど川が分岐した場所なのでドームとの間には元安川と本川2本の川が流れている。

 

原爆は校舎を全焼し学校関係者の命を一瞬の内に奪った。倒壊を免れた鉄筋3階建て校舎の一部が平和資料館として保存されています。広島に住んでいながら今まで訪ねたことがなかった。初めての資料館見学です。

 

1945年(昭和20年)8月6日(月)午前8時15分。

学校の南東約350m、上空約580mで原子爆弾は爆発した。

 

当校は爆心に一番近い学校でした!

強烈な熱風と放射線…

校長先生ほか10名の教職員と約400名の子どもたちの命を一瞬の内に奪った。

 

全焼しながらも倒壊を免れた校舎は、1928年(昭和3年)に建てられたもので、広島市の小学校としては初めての鉄筋コンクリート造りだった。

 

 

臨時救護所となるも…

資料館の入り口わきに立つ原爆慰霊碑

「あまねくとどけ平和の祈り」

 

学校は臨時救護所に当てられた。しかしながら焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当てする術もなく、校庭は死骸の山となる。

已むなくこの地で荼毘に付された。

 

 

地下展示

原子爆弾は爆心地から半径およそ2kmまでの建物のほとんどを破壊し街を焼き尽くした。原爆の熱線・爆風さらに放射線は市民の上に容赦なくおそいかかった。

その年のうちにおよそ14万人の市民がなくなりました

(▽ 赤い球が原爆 矢印が本川小学校)

 

 

平和公園の原爆慰霊碑 碑文

碑文は当時の広島市長・浜井信三氏の依頼により広島大学文学部教授・雑賀忠義氏が書いたものです。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

 

 

見学者

資料館の存在を知らなかった私はうかつものでした。

 

平和公園ほどではないにしろ小中学生の見学者が次々と訪問していた。東京星美学園小、奈良市立帯解小、愛媛新居浜市立惣開小、山口岩国市立川下中…。この子たちが79年前の歴史から平和の尊さを勉強してくれますように!

 

稿を改めます

- つづく -

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