検疫所

似島には日清戦争の終戦直後の1895年(明治28年)に後藤新平の指導の下に検疫所が設けられました。戦地から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行う施設です。兵士たちが日本の国土を踏む第一歩が似島だったのです。

 

10年後の日露戦争中に拡大され、当時としては世界最大の規模のものでした。

ところが、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に世界で初めて広島に原爆が投下された。検疫所は臨時野戦病院となりました。

 

 

原爆の犠牲者

原爆投下直後から20日間に約1万人の負傷者が市内から運び込まれました。その被災者のほとんどは亡くなりました。火葬が間に合わなくなり多くは土中に埋葬されました。

 

1947年(昭和22年)の発掘では1500体が発掘された。以来4回の発掘で2602体、遺灰100人分や数多くの遺品が発掘されました。

 

案内板には、防空壕も一時的な遺体安置所として使用されたことが書かれています。

(△ 今は防空壕は安全のために塞がれている)

 

 

慰霊碑

似島中学校の校庭脇にあります。昭和46年に中学校の農業実習地から遺骨7体、その後の調査により517体分の遺骨と遺品が発掘された。翌年に原爆犠牲者の冥福を祈って建立されたものです。

 

 

覚えておこう…(帰る船中にて)

宇品の沖約3kmの距離に浮かぶ島、市内から見えるのは富士山の形をした美しい島でしかありません。が、78年前に起きた原爆の惨事を伝える島であることを忘れてはいけない。

 

G7の首脳にも広島はそういう地であることを知ってほしい。

 

原爆を使うとどうなるか覚えておこう。悲劇を繰り返さないために伝えていこう。ここから世界へ。ここから未来へ。

 

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