【 頼山陽は好きな人物の一人です 】
彼の著書「日本外史」は幕末の志士たちに多大な影響を与えた。吉田松陰や橋本佐内らも愛読していた
「頼山陽先生日本外史著述宅跡」 石柱は被爆した時に折れたものを修復している
山陽は1780年に大阪で生まれた。翌年、父(春水)が広島藩の学問所に登用されたため両親と共に広島に移住した。春水は安芸竹原(現在の広島県竹原市)の豪商の息子です。「頼」という名字は営んでいた紺屋の屋号(頼兼よりかね屋)に由来する。
資料館のある地で育ち、1797年には1年間江戸に遊学します。広島に帰るが、1800年に脱藩して京都に行く。すぐに連れ戻され屋敷の離れに(5年間)幽閉された
この「離れ」が現在の頼山陽居室です(原爆で焼失したが昭和33年-1958年に復元)
5年間幽閉された山陽は、ひたすら文筆活動に専念し歴史書「日本外史」の草稿をまとめた。幽閉が解けると神辺(現在の福山市)や京都に移り住み様々な著述に励む
天保3年(1832年)に京都において亡くなりました(53歳)
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≪ 被爆樹木 クロガネモチ ≫
資料館は(袋町の)旧日銀の東隣にあり爆心地から400m。爆風で幹が折れたが根元から生えた新芽が成長した
【 展示室 】
「日本外史」 稿本(版本にする前の手書き本)
1827年に(元老中)松平定信に献上されたもの
「頼山陽書状」 幽居中の陳情書です(…残念ながら読めません)
「題越侯不識庵像七絶(えっこうふしきあんのぞうにだいするしちぜつ)」 頼山陽 書(写)
鞭聲粛々夜河を過る
暁に看る千軍の大牙を擁するを
遺恨なり十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す
(有名な川中島の合戦を詠んだ詩です。襄のぼるは本名、山陽は号です)
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尾道や福山にも彼の足跡があります