清洲城天主閣<200日目 清洲城下でお花見(6)> | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を公開中。

清洲(きよす)('15.4.4)

清洲城(200-24)
清洲城天主閣は1989年(平成元年)に再建。
もともと天守があったとみられる場所は公園になっているので、川の対岸に建てられた。

門の塀は、熱田神宮の信長塀(戦勝のお礼に信長が奉納した土塀)を再現。
庭に大きな石が配置されている。

芸能文化館(200-25)
隣に建つ芸能文化館は、書院造風の御殿。

天主閣に入る(入館料¥300)。靴を脱いで上がる。
靴箱がいっぱいになるくらいお客さんが多い。

午後3時から、3階で清須会議の紙芝居が始まるそうなので見る。
「清洲城武将隊」のお江(ごう)さんが担当。
清須会議の話がメインだが、信長の生涯についてもかなり詳しく説明。

賤ヶ岳の戦いでお市の方が死ぬくだりで、自分がお江(お市の娘)だという設定を、急に思い出したかのように悲しむのが面白い。
全体的には明るく快活な語りで、しかも聞き取りやすかった。

あらためて1階から展示を見よう。
1階は清須城築城前の清須についての展示と、信長の時代以降、現代までの年表。

ちなみに清洲城では、1610年の清須越以前の「きよす」は「清須」、それ以降2005年(清須市の誕生)までは「清洲」と表記。
また、清須越以前の「きよす城てんしゅかく」は「清須城天守閣」、1989年に建った現在の建物は「清洲城天主閣」と表記している。

2階は武士の暮らしや、清須城の歴史について。
城の石落としが復元されている。
清須城の歴史は、映像とジオラマで解説。

織田信長が那古野(なごや)城から清須に入城したのは1555年(弘治元年)。当時のお城にまだ天守はなかった。
桶狭間の戦いにもここから出陣した。
1563年(永禄6年)、美濃の斎藤氏と戦うため、居城を小牧山城に移す。

1582年(天正10年)、本能寺の変で、信長と嫡男の信忠が明智光秀に討たれ、山崎の戦いで光秀が討たれると、織田家の後継者と領地の配分を決める「清須会議」がここで行なわれた。

織田家の後継者については、柴田勝家が信長の三男・信孝を推したのに対し、羽柴秀吉が信長の嫡孫(信忠の嫡男)の三法師(後の秀信)を推挙。
丹羽長秀が秀吉を支持したこともあり、跡継ぎは三法師に決まった。

また領地の再配分によって、清須城の城主は信長の次男・信雄となった。
信雄は城の大改築を行なう。このとき天守ができ、清須城は城下町も含めた、大きな城塞都市となったそうだ。

その後の城主は、豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直と変わる。
1610年(慶長15年)、「清須越(きよすごし)」が行なわれ、城下町ごと名古屋に引っ越した。

名古屋城西北隅櫓(158-33)
名古屋城の西北隅櫓は、取り壊した清須城天守の資材を使って造られたとされ、そのため「清須櫓」ともよばれている。

江戸時代には清洲宿ができ、当地は再びにぎわいを取り戻したという。

2階の展示はそのほか、信長と能や茶の湯の関係、そして信長の政策について。
楽市楽座は清須では行なわれず、岐阜で行なわれた。商人を清須から岐阜に呼ぶ狙いがあったとされている。
ほかに兵農分離や、撰銭令(えりぜにれい)について。

清洲城


※これ以前の「日本縦断ゲーセン紀行」&地図はこちら。
第200回 清洲城下でお花見(栄生→清洲→稲沢)
第199回 桜と自動織機がいっぱい(庄内通→庄内緑地公園→栄生→名古屋)
第198回以前

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