16日

■『續再夢紀事』、見落としがある。

 なぜ、スルーしていたのか、自分に不審の廉あり。

■松平春嶽は伊達宗城書簡の中で、勝海舟を「飛川」と表記。

17日

慶応2年6月25日

「軍艦奉行勝義邦、上京す。書を京都守護職松平容保に呈し、

征長・兵庫開港・金穀窮乏等に就て意見を陳ず。

明日、容保に謁して之を説き、更に書を致して、活眼を開きて宇内の大勢を観、

且幕府の職掌と徳川氏の家事とを明らかにするの要を陳ず」

長州征伐(長州藩処分)というと、元治元年(1864)の「禁門の変」後の

第1次長州征伐を思い起こすが、それ以前、参与諸侯間で議論が行われていた。

当時、横浜鎖港と並んで、長州藩問題は国家レベルでの喫緊の課題であった。

元治元年2月8日、関白二条斉敬の許に朝彦親王・晃親王・近衛父子・

徳大寺公純の廷臣、一橋慶喜・島津久光・松平春嶽・伊達宗城・

山内容堂の朝政参与諸侯、松平直克・酒井忠績・水野忠精・

有馬道純の幕閣という、当時の首脳全員が参集した。

そこでは、「尋問ケ條覚、去年八月十八日元三條始七人令誘引事、

幕舶ヲ引留候事、幕使ヲ令暗殺候事(中根一之丞の事也)、

於長崎借渡候薩船ヘ妄ニ令砲撃候事、右同時ニ左之通可申渡事、

兼而御沙汰有之候元三條始七人早々可差出事、

右末家壱人家老一人召登於大阪閣老ヨリ可被申渡事」を決した。

2月11日には、毛利慶親・定広父子を糺問し、

応じない場合は征討を実行することとし、紀州藩主徳川茂承を大将軍名代

、陸軍総裁職松平容保を副将、老中有馬道純を差添とする内命を下した。

あわせて、徳島・鳥取・松江・広島・岡山・薩摩・熊本・小倉・龍野・

福山諸藩に出陣の準備を命じた。

15日、春嶽を京都守護職として役料5万石を給し、

松平容保の陸軍総裁職を改めて、軍事総裁職とした。

朝廷・幕府・諸侯の首脳が一堂に会するほど、

対長州藩対応は最優先事項であったが、

特に久光にとっては、それは同じであった。

八月十八日政変以降の確執、特に薩摩藩借用船砲撃によって、

不倶戴天の敵として位置付けられており、

会津藩同様、最も強硬な対応を求めていた。

幕府の長州征伐方針に対し積極的に支持しており、

藩主茂久に「長之御処置初り候ハ、戦争ニ至り可申欤も難計候間、

其許人気奮発之処、折角無御手抜様奉存候」

 と出兵の怠りない準備を指示している。

しかし、朝幕共にその方針がぶれ続けており、

久光にとってその因循さは座視し難いものであった。

18日

 ■慶應2年7月段階で、

越前藩士に「人才にして器曲凡庸之人物ニ無之候」と称賛される池田長発。

 ■橋本左内を知るために、彼が15歳の時に著した

『啓発録』を読んでいただきたい。百聞は一見に如かず。

講談社学術文庫あたりが読みやすいです!

 ■時間を忘れて『続再夢紀事』三昧したい。

どこぞの授業か講座で、「『続再夢紀事』を読む」、やっぱりやりたいな。

準備も相当大変だが。

 ■『続再夢紀事』を読んでいて、松平春嶽が一橋慶喜に宗家相続を迫る場面、

慶喜同様、吹いてしまった。

19日

 ■『幕末維新史への招待』、こちらで目次が確認できます。

 

 

 ■慶應2年5月、勝海舟は西周の訪問を受けている。

 ■意外と当たり前すぎることの定義が難しい。例えば、「藩士」。

20日

 ■幕末の議奏、武家伝奏、近習は重要。特に議奏。

例えば、両卿(中山忠能・正親町三条実愛)・三条実美に代表される。

国事御用書記、国事御用掛、国事参政・寄人も看過できない。

このあたり、仙波ひとみさんに多くの業績がある。

箱石大さんも、忘れてはいけない。

 ■長州藩研究からスタートした私は、薩摩藩に行くのか、

朝廷(国事参政・寄人といった機関・御親兵・学習院)に行くのか、

迷った時期があった。決め手は言えないが、ある方の一言。

先週末、語ったか(笑)

21日

22日

 ■才能ある志士を輩出した薩摩藩の画期的な教育システム、郷中教育の真髄とは?

 幕末維新史探訪2023(9)

薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか③

 

才能ある志士を輩出した薩摩藩の画期的な教育システム、郷中教育の真髄とは? 幕末維新史探訪2023(9)薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか③ | JBpress (ジェイビープレス) 幕末の薩摩藩は、時代を切り拓ひらいた才気あふれる多くの志士たちを輩出したが、その要因の一つとして薩摩藩特有の教育を挙げざるを得ない。薩摩藩には、例えば長州藩の松下村塾のような、有名(1/4)リンクjbpress.ismedia.jp

 

 ■慶応2年7月5日、勝海舟は佐久間格次郎が世話になったとして、近藤勇、土方歳三、山本覚馬にそれぞれ五百疋を贈っている。

 ■慶応2年夏の突発フラグは、家茂薨去。これによる影響はでかい。

一橋慶喜も徳川慶喜に。

 ■慶応2年7月、大原重徳はまだ即時攘夷を唱える。

通商条約は勅許されていますが

 ■薩摩スチューデントについては、拙著『グローバル幕末史』をぜひ!

 

 

23日

 ■慶応2年7月、板倉勝静は松平春嶽に大坂城老中御用部屋入りを要請。

春嶽は拒否するものの、この頃のキーマンの一人が間違いなく春嶽。

 ■「朝彦親王日記」に登場する中村左馬は津藩士。

薩摩藩と津藩は長州藩再征に反対で、藩士間の交流がある。

24日

 ■慶応2年9月から、誰の目から見ても分かるレベルで、

土佐藩・山内容堂が大転換。

 ■小笠原唯八、キーマンの一人。

 ■慶応2年以降に大きくなった問題として、薩摩藩VS会津藩がある。

 ■家茂の後継について、朝彦親王・二条関白の意中は必ずしも御方ではない事実。

 ■幕府が勅許を懇請した通商条約は、「仮条約」と史料にある。

 ■土佐藩士津田斧太郎、

「年少にして才気あり、西洋の説にも基づき、天地間の道理を陳べて、

彼我の別なきを弁じ、和漢歴世の盛衰、利害を論叙する事深し」と評されたが、

何者か詳細知らず・・。

 ■長州藩をしなければいけないのだが、

これ以上深掘りすると、定年までに終わらない。

25日

 ■「霈然之恩」「遠戎賓服」など、現代語にするとなると難しい。

前後の繋がりもあるし。

 ■慶応2年以降のキーマン、もう一人発見。正親町三条実愛。

 ■本物は年齢とかポジション、経歴じゃなく、

とにかく敵わないと思わせる圧倒的な本質を持っている。

 ■久坂玄瑞、やっぱり凄い。同時代、彼を超えるのは厳しいか

 ■いつ頃から、日本語でなく分かり難い英単語を使用するようになったのか??

しかも、国内でしか通用しないような語彙を。

 ■『連城紀聞』『連城漫筆』『中山忠能履歴資料』、重要文献。

26日

 ■天保の改革の理解・評価は、阿部正弘の安政の改革の捉え方に影響する。

 ■小松帯刀は安政2年(1855)6/28に江戸藩邸に到着し、9/3江戸発、

10/8鹿児島着している。

つまり、2ヶ月余り、西郷隆盛と江戸で被っており、

顔を合わせていると考える方が妥当では。

27日

 ■黒田清隆は「維新史料綱要」で38件ヒットするが、

初出は慶応1年12月28日。

「鹿児島藩士黒田了介「清隆」下関に至り、

萩藩士木戸貫治に上京して、同藩家老小松帯刀「清廉」・

同藩士西郷吉之助等と薩長同盟を協議せんことを説く。

是日、貫治、了介及藩士品川弥二郎等と三田尻を発す」。

 ■堀田正睦は1834年(天保5)寺社奉行、1837年大坂城代を経て

1841年老中となり、水野忠邦の天保の改革に参与、

1843年辞職して帰藩し藩政改革に尽力。

社倉の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、

蘭学を取り入れて西洋医学を興すと共に、

洋式兵制を採用して「蘭癖」と評された

ペリー来航後、堀田正睦は老中阿部正に推されて、

1855年(安政2)老中首座となり、外交の難局にあたった。

勘定奉行川路聖謨や目付岩瀬忠震らの有能な開明派官僚を重用して

アメリカ領事ハリスとの通商交渉に対処した。

1857年、堀田正睦は将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、

諸大名に諮問を行うとともに、

通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと、1858年上洛した。

勅許工作は失敗して江戸に帰り、

将軍継嗣問題では、朝廷に信任のある一橋慶喜を推し、朝幕の和解を期した。

しかし、突如、井伊直弼が大老に就任したために、堀田はこれも失敗し、

日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免され、

さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。

その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉で蟄居を命じられた。

元治元年3月21日没。

 ■大橋訥庵(1816~1862)について、日本大百科全書によると、

江戸末期の儒学者。熱烈な尊攘思想家。名は正順(まさより)、

字は周道、通称順蔵。兵学者清水赤城(1766―1848

)の四男として文化13年江戸に生まれ、

日本橋の豪商大橋淡雅(1789―1853)の婿養子となる。

大橋訥庵は、佐藤一斎に儒学を学び、

思誠塾を開いて子弟を教授、詩文に優れた。

1857年(安政4)『闢邪小言 (へきじゃしょうげん) 』を著して

尊王攘夷論を鼓吹した。

安政 の大獄に刑死した頼三樹三郎の遺体を収めて小塚原回向院に埋葬した。

大橋訥庵は、公武合体論による皇女和宮の降嫁反対運動にも参加した。

坂下門外の変に際し、計画の中心人物と目されて、

老中安藤信正襲撃に先だって捕らえられたが、病のため出獄、

宇都宮藩に預けられたが文久2年7月12日没した。47歳。

伊藤博文も吉田稔麿も、その塾に出入りしていた。

28日

 ■明治時代後半の回想録を史実と認定し、

それを前提に都合良く幕末政治史を構築することは危険である。

木戸孝允自叙ですら、危うい箇所がある。

史料批判を十分にして、

まずは1次史料と当時の政治状況の精緻な分析が必要と考える。

 ■黒田清隆は、慶応2年の第2次薩摩スチューデントのメンバーに

間違いなく入っていた。長州藩との連絡を務めるため、辞退か。

 ■伝記は基本、その人物の顕彰という意味合いがあるため、どうしても盛りがち。より一層、注意が必要と肝に銘じる。

 ■永井尚志(1816~1891)について。

幕末の幕府官僚。幕府海軍の創設や大政奉還の起草に尽力。

1816年(文化13)三河奥殿藩主松平乗尹の庶子に生まれ、

旗本永井家の養子となる。

1848年(嘉永1)の学問吟味で甲科上の褒詞を受ける。

1853年目付となり、長崎勤務中の1855年(安政2)

オランダ国王から贈られた観光丸を用いた海軍伝習の監督となる。

1857年観光丸で帰府。築地に開かれた軍艦操練所を監督する。

その後、勘定奉行、外国奉行、軍艦奉行と転じ、安政の大獄で一時失脚する。

1862年(文久2)軍艦役頭取に復職し、同年京都町奉行となる。

1865年(元治1)第一次長州遠征(長州征伐)で

毛利氏の処罰をめぐり孤立して辞職した。

865年(慶応1)第二次長州遠征のときに大目付に復職した。

1867年若年寄格となる。

坂本龍馬が暗殺される直前、永井と2回会談している。

1868年(明治1)蝦夷地に渡り新政府に抵抗。

1869年降伏し入獄するが、1872年赦免となった。

永井尚志は、新政府に仕え、開拓使用掛、左院少議官、

元老院権大書記官を経て、1876年退職した。

1891年7月1日死去。76歳。墓は東京都荒川区の本行寺。

自伝に『永井介堂君履歴稿本』がある。

 ■田中新兵衛が姉小路公知を暗殺した朔平門外の変については、

拙稿「幕末中央政局における朔平門外の変 その背景と影響について」

(『日本歴史』2007年10月号)、

拙著『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ、2009年)

を参照ください。

『島津久光=幕末政治の焦点』(町田 明広):講談社選書メチエ 製品詳細 講談社BOOK倶楽部時は、幕末がいまだ「政治の季節」であった文久期。幕府の権威が根底から揺らぎ、過激志士らの暴発に朝廷がおびえる中、その動向をもっとも注目された男こそ、島津久光であった。久光の指揮の下、小松帯刀、大久保一蔵、中山中左衛門、堀次郎ら、実力ある藩士たちが、京都の中央政局を舞台にして、幕末の行方を決定づける政争をくりひろげてゆく。史料を丹念に読みこみ、幕末政治史にあら…リンクbookclub.kodansha.co.jp

 

29日

 ■福井県文書館ご担当者さんから『福井県文書館資料叢書』19「福井藩士履歴11 新番格以下4 ウ~マ』をご恵贈いただきました。ありがとうございました。解説も毎回読みごたえがあります。越前藩研究は、薩摩藩研究でも必須であり、本シリーズを活用させていただいております。

 

 

 ■「小松・木戸覚書」以降の薩長融和において、

薩摩藩のキーマンは黒田清隆、大山綱良、五代友厚。

 ■『幕末会津藩往復文書』、極めて貴重な資料なのだが、

残念ながら時系列になっていない。

 ■慶応2年7月「松平慶永登坂心覚」は、『続再夢紀事』に採録されていない。

 ■郷中教育の申し子・西郷隆盛、

農政キャリアを歩んだ彼が日本にもたらしたもの 

幕末維新史探訪2023(10)

郷中教育が育んだ巨星、西郷隆盛の生い立ち

 

郷中教育の申し子・西郷隆盛、農政キャリアを歩んだ彼が日本にもたらしたもの 幕末維新史探訪2023(10)郷中教育が育んだ巨星、西郷隆盛の生い立ち | JBpress (ジェイビープレス) 前回まで、薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのかについて、3回にわたって扱ったが、その中で画期的な教育システムとしてご紹介した郷中教育からは、綺羅星のような偉人たちを輩出したこ(1/3)リンクjbpress.ismedia.jp

 

 ■慶応期の薩摩藩を研究する場合、長州藩とともに、

会津藩にも踏み込まなければならない。

もちろん、前者が中心ではあるが。

 ■幕末政治史は、実証研究花盛りのように言われているが、

果たしてそうだろうか?土佐藩はどうか?

長州藩だって、まだ残された部分が多い気がする。

 ■福岡孝弟の研究、幕末維新史には必須

 ■慶應期の政治史を、薩摩藩からもう一度、見ようと試みている。

ところで、幕末政治史を会津藩(松平容保)で重箱の隅を突くような実証研究を、

どなたかにしていただきたい

 ■会津藩士・神保修理の実弟は北原雅長(まさなが)。

天保13年(1842年)生まれ、大正2年(1913年)没。

初代長崎市長。幕末会津藩研究の必読書である『七年史』の著者である。

 ■鳥羽・伏見の戦いは4日間。どうも関ヶ原のように、

1日で勝負ありと思っている人が、意外と多い様子。

30日

 ■山内容堂は書簡署名を使い分けているが、

「狼生」「病狼」というものもある。

なお、伊達宗城書簡(慶應元年)には「狼兄」とある。

31日

 ■薩摩藩士・折田要蔵、不思議な人物だ。湊川神社初代宮司にもなっている。