1日
■『木戸孝允文書』では、「大市」を大田市之進とするが、明らかにこれは大久保一蔵のこと。木戸孝允は、黒田清隆を「ひげ先生」とあだ名している。
2日
■幕末肥後藩の動向は軽視できない。
九州の外様でありながら、基本は幕府支持であった。
その諜報力も凄く、その結果が『肥後藩国事史料』に垣間見られる。
本史料は、この時期の研究者は必須である。
元治・慶應(元年)期の中央政局における上田久兵衛には要注意。
3日
4日
■拙稿「慶応期後半の中央政局と薩摩藩―幕薩・薩長融和と薩英戦争を中心に」(『神田外語大学日本研究所紀要』15号)は
「KUIS学術情報リポジトリ」で公開されました。
■幕末の人斬りというと、河上彦斎(肥後)、中村半次郎(薩摩)、
岡田以蔵(土佐)、田中新兵衛(薩摩)の4人が挙げられるが、
実際に誰を切ったかは分からないことが多い。特に桐野は謎が多い。
幕末で最も腕が立ったのは誰だろう?
他には、伊庭八郎、沖田総司、永倉新八あたりが推薦候補かな?戯れ言です。
■山川健次郎からみた山川家。
父は山川重固(会津藩家老)、
兄は浩(陸軍少将、男爵)、
姉は操(明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官)、
もう一人の姉は二葉(女子教育者・東京女子高等師範教諭)、
妹は捨松(元老・大山巌公爵の妻)。
■白虎隊研究の基本文献は、宗川虎次『補修 會津白虎隊十九士傳』である。
補修は山川健次郎がしており、大正15年に発行された同書を、
マツノ書店が2006年に復刻した。
飯盛山にて自刃した19士と、蘇生した飯沼貞吉の略伝。
娘子軍など殉節婦人の事蹟に関する記述も含まれる。
■葛飾北斎について、驚愕の事実は、享年90、
死後4年後にペリー来航だったこと。
これだけの好奇心旺盛な天才が、開港後の日本を見たら、
またどのような才能を開花させたのか、興味深い。
■『木戸孝允関係文書』5巻が至急欲しい事由として、
広沢真臣および山田宇右衛門から木戸孝允宛の書簡を拝見したいとしていたが、
そこに、中岡慎太郎と山県有朋を加えたい。
何とかならないかな・・。くどいな
■友人のテレビマン兼研究者の知野文哉さんから、
「常々町田さんの論には、実社会の第一線で活躍されていた方ならではの、
人事や組織に関する視点と理解があり、
そこが学術一筋の研究者とは違う論の深さだと思っています」と言われた。
知野さんには、時々、ドキッとすることを言われる。
■井伊直弼が青春時代を過ごした舎、「埋木舎」。私も見学に伺ったが、
この埋木舎時代に「なすべき業」として、禅、居合、兵学、
茶道(代表作『茶湯一会集 』)など教養を積んだ。
さらに国学者長野義言(通称主馬、のち主膳、号を桃廼舎)に師事し、
国学、歌道、古学などを学び、また彼を重用した。
5日
■史料解釈は大切だが、場所とか日付とかだけでなく、
当時の政局や歴史的背景の中で、論じたものであって欲しい。
■イギリス産業革命は、
かつて経済学者のアーノルド・トインビー(1852―83)が主張したような、
激変的でドラスティックな現象としてではなく、
少なくとも16世紀中ごろから工業化が始まったとする見解が
今日では支配的である。
■「帝国主義」には様々な定義が存在し、
特に1870年代以降について、狭義の帝国主義とする場合がある。
一方で、15世紀後半から19世紀前半にかけてのヨーロッパ諸国の世界進出を
「帝国主義」とし、前者を「新帝国主義」とする場合がある。
6日
■残念ながら余裕がないが、過去の松平春嶽研究を総ざらいしたい欲求あり。
■慶応元年11月、大目付永井尚志は広島において、
従士近藤勇・伊東甲子太郎・武田観柳斎をして、
長州藩との連絡役にしようとしたが、長州藩側の拒絶にあった。
近藤らの在り方を考えさせられる。
7日
■内田政風日記、慶応期のものが、かつて存在していたのか。
8日
■徳川慶喜の、慶応2年夏の即断即決力に脱帽する。
ほぼ瞬時にして結論を出している。これでは、周辺が付いてこれまい
■尊王と言いながら、慶喜のここまでの「強情」はどうして可能なのか?
■一会桑論、そろそろ本格的な議論をしなければいけない時期。
■慶応2年夏の上方での越前藩士のキーマンは、伊藤友四郎か。
9日
10日
11日
■慶応3年4月21日、
伊達宗城は島津久光に対し、五代友厚の「所望」を申し出ている。
■史料がなければ、ただの想像。結構、簡単なロジック。
12日
■朝日新聞朝刊にコメントが掲載されました。
デジタルは有料ですが、以下です。
五代友厚、濡れ衣だった「汚点」 官有物払い下げ「無関係」、教科書修正
■グラバーはメチャ重要人物であるが、
維新史料綱要ではわずかヒットは3件のみ
パークスの訪薩にも関わっているが、このあたり、史料が少ない。
■アーネスト・サトウはグラバーについて、
『一外交官の見た明治維新』の中では、だんまりを決め込む。。
■朱子学、経世論、国学…
幕末武士に多大な影響を与えた「後期水戸学」への系譜
幕末維新史探訪2023(11)
幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①
13日
■松平春嶽・勝義邦・薩摩藩。慶応2年キーワード。
■龍馬の盟友・近藤長次郎がグラバー邸で語った新史料発見…
薩長同盟2日後の切腹は謎
https://yomiuri.co.jp/culture/20230413-OYT1T50146/…
私のコメントも掲載されています。
■薩英戦争の交渉談判時の岩下方平は、「家老代」。
■西郷隆盛と桂久武の関係を軽視してはならない。
相当、意思疎通がある信頼関係を構築している。
双方が相手を等閑視した言動をするとは思えない、
というのが私の現時点での結論。
14日
15日
■長岡監物の息子、米田虎雄(熊本藩家老、維新後は宮内官僚)は、
西郷隆盛の印象を「背のスラリとした髪の毛のバサバサした武士で、
眼ばかりはギロギロと光っていた。島に流されて非常に肥満って帰り、
その後も肥満ってきたが、天下のために奔走している頃は、
痩せたスラリとした人」と回顧した。
■米田虎雄は「明治天皇が兎狩りにとち狂っていた明治14年当時の侍従長」と、
大山格さんから教えていただいた。
16日
■『橋公行状記』について、
平岡円四郎が慶喜の業績を書いたものを、橋本左内がまとめたとされる。
安政4年12月14日、西郷隆盛から左内に対して
「橋公御行状記略」を届けて欲しいと依頼、
同日、左内は承諾の書簡を送ったが、
西郷が西南戦争で最後まで懐にしていた書簡がこれ!
■アーネスト・サトウは、
その日記の中で、「黒ダイヤのように光る大きな目玉をしているが、
しゃべるときの微笑には何とも言い知れぬ親しみがあった」(西郷隆盛)、
「私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物」(小松帯刀)、
続き)「ルシフェルのように傲然」(高杉晋作)、
「色が白く、前額が秀で、くっきりとした鼻つきの立派な紳士」(慶喜)
などと評している。
■英国のラッセル外相が、
生麦事件に関する要求をニール代理公使に指示したのは、
1862年(文久2)12月24日付の訓令において。
重要な点は、幕府は薩摩藩に対して何事もなしえないであろうと判断し、
双方に別々の要求を突き付けたこと。
■新選組や奇兵隊のように、当時から名前がちゃんとあり、
史料上でも確認できる集団はそう多くない。
例えば、薩摩藩の誠忠組。あるいは土佐藩の勤王党。
これらは当時、そう呼ばれていたかは、実は良く分かっていない。
■妻木忠太に注目。私は久坂玄瑞文書、前原一誠伝 、来原良蔵伝、
維新後大年表、妻木忠太歴史論文集などを所持しているが、
まさに歴史家である。
妻木が関わった文献は、長州藩研究には必携の書ばかり!
■山本覚馬の管見は、慶応4年5月に野沢鶏一に口述筆記させた建白書。
オリジナルは残念ながら現存していない。
原本を栗原只一、醍醐忠順(慶応4年8月)、
島津久徴の順に筆・転写したものが同志社大学に保管されている。
■山本覚馬の管見は、和紙仮綴じで縦24㎝横17cm、本文22丁である。
表紙に「山本覚馬建白」とあり、
裏表紙に「会津藩山本覚馬建白也自栗原只一借得令写了
薩藩江囚中云云 慶應四戊辰年八月十五日 忠順」
「右再借写之了 明治二巳巳年六月 久徴」と書かれている。
■世良修蔵は、十分に参謀になる経歴、資質を持っていた。
私が注目するのは、慶應期ギリギリの段階で、
長州藩を代表して京都で薩摩藩との交渉を任された一人であること。
その事実は、世良が無能でない証左だろう。
■広沢真臣は新政府で参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀、内国事務掛、
京都府御用掛、参議を歴任している。
米沢藩士・宮島誠一郎と会談して
会津藩救済の周旋を建白させたエピソードが残る。
明治2年(1869)には、木戸や大久保と同じ永世禄1,800石を賜っており、
民部大輔や参議の要職を歴任。
続き)広沢真臣は前途洋々の長州閥の旗頭でありながら、
明治4年に暗殺されたため、歴史の中に埋もれてしまった。
幕末期にさほどの目立った事績がないように見えるのも、
早死が原因かもしれない。
吉川弘文館の人物叢書で、ぜひ見てみたいが、無理か。。
■坂本龍馬の維新史料綱要での登場は48件。
初出は安政5年11月17日
「水戸藩士住谷寅之介・同大胡聿蔵、土佐国「長岡郡」立川村に到る。
尋で「二十三日」高知藩士坂本龍馬「直柔」・
同窪為介・同甲藤馬太郎等に会晤し、奉勅義挙の事を謀る」。
■拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」
(『神田外語大学日本研究所紀要』9号、2017年)では、
亀山社中について、
「実態としては小松帯刀配下の土佐藩脱藩浪士を中心とする一団を指す。
続き)彼らはこの段階では坂本龍馬とは一切関係がなく、
薩摩藩・小松の庇護の下、「社中」と自らグルーピングしていたに過ぎない。
彼らの一部は薩摩藩の海軍建設のため、この段階で薩摩藩から藩士として認められ、薩摩藩士として行動していたと考える」とした。
同時代史料に「亀山社中」は存在しない。
■拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」では、
近藤長次郎について「異彩を放っており、
事実上、社中の代表格として井上聞多の鹿児島行きに同行し、
長州藩主にも謁見してユニオン号の斡旋を託されている。
続き)近藤長次郎は坂本龍馬とこの時点では同格であり、
薩長融和に果たした役割を看過すべきではない」として、
近藤長次郎を高く評価している。
拙稿「慶応期政局における薩摩藩の動向―薩長同盟を中心として―」は、
以下からダウンロードできます。
17日
■慶応3年4月23日、「誅暴除姦 諸隊選挙士民」
が薩摩二本松藩邸に張り紙。現在、読解中。
18日
■慶応期に入っても、「白石正一郎日記」に助けられるとは。
19日
■「後期水戸学」の理解者、徳川斉昭は井伊直弼も憧れた幕末のスターだった?
幕末維新史探訪2023(12)
幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学②
■大攘夷を攘夷実行慎重派、そして未来攘夷派、
小攘夷を即今破約攘夷派、そして即時攘夷派と定義してみた。
20日
■歴史探偵、坂本龍馬回をご覧いただいた皆さま、
ありがとうございました。
なお、私以外の出演者(VTR含む)のご意見は、
イコール私の見解では必ずしもありませんので、
よろしくお願いいたします。
■[歴史探偵] 坂本龍馬が薩長同盟に果たした真の役割とは?| NHK https://youtube.com/watch?v=NqQG-zBFVdI…
【出演者】 佐藤二朗、町田明広(幕末政治史研究)、
三浦夏樹(龍馬研究者)、渡邊佐和子アナウンサー(ナレーション)
21日
■島津斉彬は一橋派の中心人物として、
慶喜を将軍とする運動を展開していたが、
安政4年(1857)4月3日、参勤交代の巡り合わせで、帰藩せざるを得なかった。
斉彬一行は京都に立寄ったが、もちろん幕府の許可あり。
■安政4年、島津斉彬は京都に着くと、
所司代に挨拶した後、近衛忠煕・忠房父子を訪ね、
三条実万(三条実美の実父)を含めて国事を議している。
その際、異変が生じた際の京都守衛の内勅を賜った。
西郷隆盛も、近衛家に出入りしていた清水寺成就院の僧月照を始め、
梁川星巖、頼三樹三郎らと知己になった。
■岩瀬忠震は、将軍継嗣問題では、慶喜を支持する一橋派に属したため、
大老井伊直弼による安政の大獄で作事奉行に左遷され、
安政6年には蟄居を命じられた。
その僅か2年後の文久元年、死因は判然としないが、
蟄居生活への鬱憤が蓄積した結果か、44歳の若さで失意のうちに病死した。
22日
23日
24日
■寺田屋事件については、
拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』
(近代史研究叢書17 、岩田書院、2010年)
の「第1章 率兵上京と「皇政回復」第4節 尊皇志士と寺田屋事件 」
をご参照ください。
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm
■寺田屋事件については、拙著『島津久光=幕末政治の焦点』
(講談社選書メチエ、2009年)
「第4章 寺田屋事件の深層」でも詳述しています。よろしければ、ご覧下さい。
25日
■尾高長七郎は、尊王志士としての経歴が一廉でない。
例えば、長州藩の久坂玄瑞・多賀谷勇、薩摩藩の中井弘・伊牟田尚平、
そして清河八郎らと接触している。
■尾高長七郎は、坂下門外の変に連座した。
しかし、それ以前に多賀谷勇と謀議し、
上野寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて日光山に挙兵し、
幕府を開国から攘夷に転換させることを画策した。
まずは水戸に出向き、原市之進に協力を求めたが謝絶されて方向転換する。
■尾高長七郎の申し出を峻拒した原市之進は、平岡円四郎の暗殺後、
本日ちらっと登場した(大河ドラマの解説文の再掲のため)川村恵十郎を抑え、
一橋家の中心人物となり、慶喜の将軍就任に尽力、
最側近として活躍することになる。
■文久元年11月8日、
尾高長七郎は宇都宮城下で宇都宮藩の儒者大橋訥庵と密会した。
それを契機にして、大橋が進める安藤襲撃に目的は転換したが、
決行直前になって、兄の尾高惇忠に無意味な行為として反対され、離脱した。
その後、上州佐位郡の国領村に潜伏した。
■文久2年1月下旬、捕吏の探索が頗る厳しくなったため、
渋沢栄一は尾高長七郎に対し、
「江戸へ出るというは余りに無謀な話で、自ら死地に就くも同様だによって、
ここから方向を換えて、
一刻も早く信州路から京都を志してしばらく嫌疑を避けるのが上分別であろう」
(『雨夜譚』)と忠告した。
■渋沢栄一は、尾高長七郎に危険な情勢を伝えるとともに、
京都に逃避することを勧説しており、その同意を得ることに成功した。
長七郎は信州経由で上京し、以降は即時攘夷を標榜する長州藩が席巻していた
中央政局の動静を渋沢らに報告する役割を担うことになった。
■文久3年8月頃、渋沢栄一は尾高惇忠、渋沢喜作と3人で
「幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回する」ため、
攘夷実行の計画を密議した。高崎城を乗っ取り、
武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を襲撃。
焼き打ちして外国人を残らず殺害する無謀な計画を立案した。
■尾高惇忠が執筆した「神託」は興味深い。
「近日高天ケ原より神兵天降り」として、
「皇天子十年来憂慮し給ふ横浜箱館長崎三ケ所ニ住居致ス
外夷の畜生共を不残踏殺し天下追々彼の欺に落入石瓦同様の泥銀にて
日用衣食の物を買とられ自然困窮の至りニて」と、
外国人殺傷の趣意を述べる。
■神託は「畜生の手下に可相成苦難を御救被成候間神国の大恩相弁ひ
異人ハ全狐狸同様と心得征伐の御供可致もの也」と続く。
また、「此度供致候者ハ天地再興の大事を助成仕候義に候得は永く神兵組」
と自らを称した。そして、「天地再興文久三年癸亥冬十一月吉辰」と記す。
■【2021年4月 学術文庫2666】
アーネスト・メイスン・サトウ『一外交官の見た明治維新』鈴木悠 訳
私は「監修協力」として関わらせていただきました。
26日
■水戸学の三傑・幽谷、正志斎、東湖が大成した
後期水戸学が日本人に遺したもの
幕末維新史探訪2023(12)
幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学③
27日
■幕末期、「国家」=「天皇」の意味もあった。
■『攘夷の幕末史』(講談社学術文庫、2022.4.12)は、
2012年に現代新書で刊行されたものをベースに、
30ページほど増補し、全編にわたって加筆訂正をしたものです。
28日
29日
■戊午の密勅は、諸藩にも内報された極めて意義深い大事件であった。
勅許なく通商条約に調印したことを強く非難し、
御三家および諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、
幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命令した。
さすがに、幕府打倒までは求めてはいない。
■戊午の密勅は、伝達方法だけでなく、
内容的にも幕府の面目は丸つぶれであった。
水戸藩による朝廷工作によって下賜されており、
水戸斉昭を犯人とにらんだ井伊政権は徹底的な捜査を命令、
精緻な警察網をフル稼働させて摘発を開始した。
いわゆる、安政の大獄の開始である。
しかし、なかなか斉昭摘発に行きつかなかったために、
その捜査網は一層の拡大をし続け、犠牲者を増やしていった。
斉昭の関与は証明できなかったものの、捜査範囲は広がり続け、
未曽有の大弾圧事件に発展して処罰者は100人を超えた。
■安政の大獄の陣頭指揮を京都で執ったのが、
所司代酒井忠義と老中間部詮勝であった。
特に後者は、井伊が「赤鬼」と称されたのに対し、
「青鬼」と称されて恐れられた。
間部は九条関白の復権を図り、孝明天皇の側近である青蓮院宮、
近衛忠煕、三条実万らを隠居・永蟄居・辞官・落飾とした。
30日
■ステレオタイプの龍馬像は、とてつもなく堅固な要塞です。
■慶応3年は史料が山のようにあり、それを舐めるように当たっているので、
必要な時間は無尽蔵 。
しかし、それが使命です。なので、全体的にすべてが遅れることに。
■『幕末維新史への招待』、発売1週間が経過したが、
好評を博して既に増刷となり、編者として一安心。
当然、その次を期待するお言葉を多数いただいている。
ありがたいことです。また、ご協力ください。