先月と今月、折角書き出したのに保存し忘れていたという・・・
1日
■五代友厚について、
拙著『グローバル幕末史』で「幕末維新期に活躍したメンバーの中に、
なかなかその名が挙がらない。
これは政治家の道ではなく、明治に入ってすぐに財界人に転身したことによろう。
五代がそのまま政治家を志していれば、
総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している」とした。
続き)五代が亡くなった年に内閣制度が発足している。
正確に言うと、「五代がそのまま政治家を志し、もう少し長命であったなら、
総理大臣も夢ではなかったと個人的には確信している」ということです。
青山忠正先生の「その気になれば政界のトップまで上り詰めることもできた」
とする意見に賛成です。
■幕末肥後藩の動向は軽視できない。九州の外様でありながら、
基本は幕府支持であった。その諜報力もすごく、
その結果が『肥後藩国事史料』に垣間見られる。
本史料は、この時期の研究者には必須である。
2日
3日
■絶対に戦略は必要。盲滅法で成功した例をあまり知らない。
少なくとも、自分の人生では。
なんだかんだ言って、準備していればいるほど、大きな成功に結びつく。
運は平等、しかし、大きさは不平等。
■幕末土佐藩の研究が少な過ぎる嫌いあり。
武市半平太、中岡慎太郎の研究が必要。
他に平井収二郎、間崎哲馬、近藤長次郎も。
坂本龍馬については、今後一層、脱「竜馬がゆく」が図られるのでは。
■以前、ヤフオクで海国兵談8冊揃い、嘉永7年。22万。買っていませんが。
4日
5日
■新選組について、思った以上に何も知らない自分に気が付く。。
■大宰府時代の三条実美を軽視してはいけない。
薩長両藩にとって、まさに「玉」。
だからこそ、従士である中岡慎太郎も重要。
木戸孝允・中岡慎太郎・坂本龍馬・西郷吉之助・小松帯刀、このラインにこだわりたい。
■再評価が必要と私が考える幕末人物の三傑は、
「小松帯刀・中岡慎太郎・広沢真臣」です。
■幕末の攘夷政策は、
今まで大攘夷(通商条約を容認、将来武備充実後に攘夷を実行)と
小攘夷(通商条約を否定、即時外国船砲撃などの攘夷を実行)に分類されてきた。
拙著『グローバル幕末史』では、
この攘夷の方策や実行時期の相違からなる対外概念を大攘夷を「未来攘夷」、
小攘夷を「即時攘夷」とした。
■【テレビ出演情報】 12月11日(日) 21:00~22:00
号外!日本史スクープ砲 (BS松竹東急)
『知られざる智の巨人 西周』 BS260ch GYAOで見逃し配信有
https://shochiku-tokyu.co.jp/program/8054/
*BSが視聴可能であれば、どなたでも無料で見ることができます。
なぜ、私が西周?『グローバル幕末史』「第7章 日本人、海を渡る―使節団・留学生が見た世界」をご覧ください。
■
『グローバル幕末史』ですが、現在、文庫化に向けて増補改訂には至りませんが、
若干の加筆訂正中です。発売日は2月初旬の予定です。
どうかよろしくお願いいたします。
6日
■明治20年12月6日、島津久光が死去。
拙著『島津久光=幕末政治の焦点』参照。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195391………
7日
■幕末維新史の謎、あまりに突然だった孝明天皇の崩御は「毒殺」だったのか?
幕末維新人物伝2022(24)
孝明天皇は毒殺されたのか①
■島津久光の研究
芳即正『島津久光と明治維新』、新人物往来社、2002年
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』、吉川弘文館、2004年
町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』、講談社、2009年
町田明広『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』、岩田書院、2010年
問題は、この後何が来るか
■近衛忠煕書簡(島津久光宛、文久2年日付未詳)によると、
前関白九条尚忠・内大臣久我建通は閣老久世・安藤と九条廃帝 の故事を調査するなど、
「国賊」であるとする。四奸二嬪排斥運動の中で、九条らを弾劾している。
■四奸二嬪排斥運動については、
拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩-島津久光と皇政回復』(2010)
第2章「朝廷改革派の形成と「文久二年政変」」
参照して下さい(^^)
http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm………
■承久の乱(1221年)後、即位後81日間で廃され、
即位も認められていなかったため諡号・追号が付けられず、
九条廃帝、半帝、後廃帝と称されたが、明治3年(1870)に仲恭天皇と追号された。
■【聞きたい。】町田明広さん 『新説 坂本龍馬』
■【書評】そもそも長崎にいなかった?坂本龍馬と亀山社中の関係性
8日
9日
■一石橋迷子しらせ石標、ここに薩摩藩邸内の浪士団が張紙をした。 https://syougai.metro.tokyo.lg.jp/bunkazai/week/chuo/chuo03.html………
10日
11日
12日
■拙稿「第一次長州征伐における薩摩藩-西郷吉之助の動向を中心に-」
(『神田外語大学日本研究所紀要8号』、2016年)は以下を参照下さい。
13日
14日
■今からちょうど320年前、
「赤穂浪士が吉良邸宅に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた」。
以前はこの日、民報各局は特番を組むなど、忠臣蔵一色であったが、
今日は泉岳寺からのニュースにもありついてない・・。
これって、そう言う類のものが喜ばれなくなった時代になったということか。
■田中河内介、90分程度の講演をしたいのだが、需要はあるか??
15日
■田中河内介は寺田屋事件の勃発時、2階にいた。
16日
■慶応2年4月以降の薩長(岩国含む)両藩の人的動向をきちんと押さえる作業、
かなり重要。
17日
18日
■『西郷隆盛 その伝説と実像』町田明広
『維新を創った男 西郷隆盛の実像』粒山樹 『
西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』家近良樹
■佐久間象山は、元治元年(1864)4月3日に幕府から海陸備向掛手付雇を命じられ、
扶持方二十人手当金拾五両を給された。
上京後、暗殺までの僅かの期間に、弾正尹朝彦親王「中川宮」、
常陸太守晃親王、徳川慶喜、将軍徳川家茂に謁している。
■佐久間象山は、元治元年(1864)7月11日、
「海陸備向掛手付雇佐久間修理、京都木屋町の街上に於て、浪士の為に、
国是を誤り且鳳輩遷幸を図るものとして殺害せらる」。
襲撃したのは河上彦斎等と言われる。
19日
■安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結された日米修好通商条約によって、
日本は、国際市場に放り込まれた。
幕府は同年中に、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも
立て続けに同様の通商条約を締結しており、
これらをまとめて、安政5ヶ国条約と呼んでいる。
■なお、幕府は滅亡までに、ポルトガル(1860年)、プロイセン(1861年)、
スイス(1864年)、ベルギー(1866年)、イタリア(1866年)、デンマーク(1867年)とも
通商条約を結んでおり、先の安政5ヶ国条約と合わせ、11ヶ国にものぼっている。
20日
■歴史上の人物の評価は難しい。
どの時点でのどの事象に対する評価か、どの史料を用いた評価か。
また、同時代人の「歴史上の人物」に対する評価等が残っている場合、
その同時代人の立場や「歴史上の人物」との関係性も考慮が必要では。
■歴史上の人物の評価、
更に、私たちのその人物への個人的好悪も加わってしまうこともある。
人物評価は、評価者の歴史観が影響する。
■黒田清隆は「維新史料綱要」で38件ヒットするが、初出は慶応1年12月28日。
「鹿児島藩士黒田了介「清隆」下関に至り、萩藩士木戸貫治に上京して、
同藩家老小松帯刀「清廉」・同藩士西郷吉之助等と薩長同盟を協議せんことを説く。
是日、貫治、了介及藩士品川弥二郎等と三田尻を発す」。
■薩長同盟を考える場合、薩摩藩・長州藩、両藩から徹底的にアプローチすることが必須。
どちらか一方では、真実が見えてこない。そして、そこに土佐浪士をいかに絡めるか。
このあたりが、肝。楫取素彦こと小田村素太郎は、薩長同盟を語る上で必須の人物。
彼と坂本龍馬との2回の邂逅が歴史を回転させた。
■黒田清隆について、拙著『薩長同盟論』の
第8章「坂本龍馬・黒田清隆の派遣」
第2節「黒田清隆の派遣の実相」で詳述しています。
http://jimbunshoin.co.jp/book/b378164.html
21日
■清水卯三郎、要注意人物です。
■安政東海地震については、
拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好」
(日本研究所主催講演会 要旨)で言及しています。
以下でダウンロード可能です。
■1853(嘉永6)年6月3日 ペリー艦隊来航
1854(嘉永7)年11月4日 安政東海地震(マグニチュード8.4)
1854(嘉永7)年11月5日 安政南海地震(マグニチュード8.4)
1855(安政2)年10月2日 安政江戸地震(マグニチュード6.9~7.1)
こりゃかなわん!
■米国商人ヴァン・リード、非常にユニークで重要な存在。
生麦事件の直前、下馬して島津久光の行をやり過ごし、
また、薩英戦争でイギリスの捕虜となった五代友厚・寺島宗則の逃亡幇助をしている。
ハワイとの関係も無視できない。面白い
■塙忠宝は、幕末期の国学者。塙保己一の四男。
文久2年12月21日、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に
何者かに襲撃され、翌日死去。
大正10年の60年祭時、渋沢栄一はこの暗殺者が
伊藤博文と山尾庸三であったと明らかにしている。
伊藤は1909年、山尾は1917年に既に死去。
■塙忠宝暗殺に関連し、フランツ・フォン・シーボルトの長男
アレクサンダー・フォン・シーボルトの日記に伊藤博文が語った話が記されている。
内容は、伊藤が語った国学者塙次郎忠宝(『群書類従』の編纂者塙保己一の息子)
暗殺の一部始終である。1882(明治15)年3月21日(土曜日)の日記。
22日
■長州藩で薩長同盟に深く関係した人。木戸孝允、伊藤俊輔、井上聞多、そして楫取素彦。
23日
■刊本史料には、編者の判断によって句読点が付されているが、原文には普通ない。
つまり、鵜呑みにしてはいけない。
句読点の位置によって、史料の言わんとしているところが違ってくる。
また、史料の読み方(解釈)も、人によって当然違う。
史料解釈が複数存在することは稀有ではない。
24日
25日
26日
27日
■幕末薩摩藩研究は、慶応3年3月まで来た。四侯会議と思ったが、その前にパークスの敦賀行きか。
■4年前の年前の話ですが、
軍事史学第54巻第3号 「特集 戊辰戦争150年」に
《書評》奈倉哲三・保谷徹・箱石大編
『戊辰戦争の新視点 上・下』〔町田明広〕が掲載されました。
軍事史学第54巻第3号
「特集 戊辰戦争150年」には、「戊辰戦争一五〇年にあたって」〔保谷徹〕
戊辰戦争と長州藩士楢崎頼三〔道迫真吾〕
元治甲子戦争における新選組の軍事行動〔中村武生〕
「三藩御親兵」の設置と「徴兵規則」の廃止に関する一考察〔竹本知行〕も掲載。
■軍事史学 第56巻第3号
特集 維新の戦乱と江戸平定 薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察
ー「三田品川戦争」への再定義〔町田明広〕
28日
■国立国会図書館デジタルコレクションで、明治百年史叢書のまだ一部だが閲覧可能に。『岩倉公実記』も含まれる。
■香春藩(かわらはん)と言われると、一瞬?となるが、小倉藩のこと。
■いよいよ研究は、慶応3年4月以降に突入をする。
そこから1年ほどの研究に、どれほど時間がかかるのか。
とは言え、慶応3年4月以降も断片的には見ている。
これを通しで、最初から舐めるように見ていく作業。
■あくまでも持論です。幕末史は、ほとんど解明されていない。
しかも、根拠もない「通説」が蔓延っている。
やるべきことは、実は山積していて、途方に暮れる思い・・。
論も大切、重箱の隅を突くことも、また大切。
■例えば、坂本龍馬。船中八策は知野文哉さんの『「坂本龍馬」の誕生』(人文書院)
で粉砕されましたが、伝説への挑戦は始まったばかりです!
拙著『新説 坂本龍馬』でも、それに続けとばかりに挑んでいます。
まだの方は、ぜひ、ご一読下さい
https://shueisha-int.co.jp/publish/%E6%96%B0%E8%AA%AC-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC………
shueisha-int.co.jp
新説 坂本龍馬 | 集英社インターナショナル 公式サイト
あなたの知っている坂本龍馬、フィクションではありませんか?
■慶應期の研究を進めるということは、「通説」「伝説」の切り崩し作業の面がある。
さしあたって元年のキーマンは、小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵、黒田清隆、
木戸孝允、坂本龍馬、中岡慎太郎、岩倉具視、徳川慶喜、松平容保、原市之進など。
■孝明天皇の死因の真相、なぜ、岩倉具視による「毒殺」説が噴出したのか?
幕末維新人物伝2022(27)
孝明天皇は毒殺されたのか④
29日
■史料解釈は難しい。学者間で差異があることは珍しくない。
ただ、詳細な応酬はアカデミックなレベルで行いたい。
師にもそのように指導された。
■日本に和親と通商を求めて根室に来航した
ロシア使節アダム・キリロヴィチ・ラクスマン。
日本ではこんなに有名なのに、没年が不明・・。
「1806年に『ラクスマン日本渡航日記』を完成させていることから、
少なくともそれまでは生存していたものと思われる」(Wikipedia)
■ラクスマンについて、
「帰国後は1794年、女帝に日本に関する様々な書物や
名品を献上したことを賞賛されて、大尉に昇進した。
1796年のエカチェリーナ2世の死去により失脚したのか、
以降の消息は不明」(Wikipedia)
30日
■弘化年間の年表とにらめっこ。孝明天皇の践祚は、弘化3年2月13日。
■町田明広『島津久光=幕末政治の焦点』を読みました
■『昨夢紀事』『再夢紀事』『続再夢紀事』『丁卯日記』『戊辰日記』について、
幕末研究には必須であることを改めて確認。
■島津久光の朝政参与就任は元治1年1月13日。
その日、武家伝奏野宮定功は留守居役内田仲之助を召し、
「不容易御時節ニ付朝議参予可有之、被仰出候、
依之従四位下左近衛権少将推任叙被宣下候事」を申し渡した。
その後、2月1日・大隅守兼任、4月11日・従四位上左近衛権中将昇叙。
■誹謗中傷と批評は違うのだが、「ディスってる」、「けなしている」、
と見られることにやや困惑。。
■薩摩藩邸焼き討ち事件については、
拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察―「三田品川戦争」への再定義」
(『軍事史学』、第56巻第3号(通巻223号) 軍事史学会 錦正社 )参照。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784764612235