1日
■先入観は危険。例えば、西郷隆盛ならこう言ってもおかしくないと決めつけるのは、
極めて危ない
■幕末の老中板倉勝静は、
儒家・陽明学者として著名な顧問の山田方谷の影響もあって、
幕閣として初めて公式に征韓論を唱え、
文久3年(1863)5月に対馬藩の朝鮮侵出の請願書を受理している。
■4年前、講談社現代新書Webページでエッセイ「これだけはおさえておきたい、
幕末についての新常識-『西郷どん』をより楽しむために」が公開されました。
まだ見ることが可能です。まだの方、よろしければ、ご覧ください(^^)
■『人物叢書』続刊予定書目◆ 2021年10月現在
2日
■慶応2年、大久保利通の最大のライバルは、原市之進。
■3年前、「歴史家が龍馬本を出すのは磯田道史さん以来ですね!」と言われた。
磯田さんの『龍馬史 』(文春文庫 2013/5/10)のこと。
ちなみに、私は幕末維新、それも極一部のことしか書けない。
■原市之進、侮れない存在。
3日
■光格天皇、徳川家斉、阿部正弘、水戸斉昭、ペリー、岩瀬忠震。今、ここ。
■ペリーからハリスへ、阿部正弘から堀田正睦へ、それぞれシフト。
4日
■安政期、西郷隆盛は書簡の署名に吉之助、吉兵衛を使い分けています。
事由は定かではありません。。
■政敵からは一枚岩に見えていたとしても、実際は内部対立を抱えていた場合、
それを〇〇政権とか〇〇勢力とか、してよろしいかどうか。
(例えば:一会桑政権)
■【備忘録】安政2年8月4日「幕府、老中松平乗全「和泉守・西尾藩主」・
同松平忠優「伊賀守・上山藩主」を罷む」。
■町田明広『新説坂本龍馬』を読む
■町田明広『攘夷の幕末史』/歴史学の常識や思い込みを覆す一冊
誰もが変化と向き合った激動の1年を振り返るスペシャル書評。
第11作目は、歴史学において尊王攘夷を討幕派、
公武合体を佐幕派と考えがちな傾向に疑義を出す新書。
武蔵野大学特任教授の山内昌之が解説します。
5日
■筒井正憲は侮れない。安政3年10月の上申書は画期的。
■重箱の隅を突くことは大切。そもそも、それが楽しい。
■一会桑勢力(政権)は、過大評価か。
6日
■福岡藩の尊王志士による薩長同盟に向けた活動は、非常に重要だった。
乙丑の変がなければ、坂本龍馬や中岡慎太郎に匹敵する評価
を受けた人物が出たかも知れない。残念・・。
■高杉晋作は妻・雅子との間に、東一(とういち、1864~1913)という実子があった。
東一は明治期、外交官として活躍したが、「英和新国民辞書」を編纂している。
実はこの辞書、前任校のコレクションに含まれており、
担当者に、これは高杉晋作の息子ですよとご教示したことがあった。
■吉田稔麿の末裔であり、9年前に亡くなられた吉田浩さんによると、
高杉晋作の形見分けとして、晋作愛用の茶釜が吉田家に送られた由。
稔麿亡き後も、晋作は何かと吉田家に気遣いを示したようで、
その後の両家の関係からして、生前の晋作と稔麿の交情の深さが偲ばれる。
■野村望東尼について、平尾山荘で高杉晋作を匿ったことは周知のことだが、
慶応元年(1865年)6月、福岡藩で起こった乙丑の変によって、
親長州藩派は弾圧され、その際に自宅に幽閉、
その後、10月に姫島(福岡県糸島市志摩姫島)へ流刑となった。
■慶応2年(1866)9月、野村望東尼は高杉晋作の指揮により、
姫島から救出され、下関の白石正一郎の家に匿われた。
その後、白石邸から野村靖宅に移り、療養中の高杉晋作と再会を果たした。
なお、慶応3年11月、三田尻で62歳で死去した。
高杉が4月に死んでいるので、僅か7か月後のことになる。
■乙丑の変によって、福岡藩は多くの優秀な人材を失った。
家老加藤司書、藩士月形洗蔵・筑紫衛などが犠牲となった。
福岡藩がその後振るわなくなった元凶であり、
この弾圧事件がなければ、西国雄藩の一角を占めた可能性がある。
■持っててよかった!という文献が時々ある。
例えば、西澤朱実編『相楽総三・赤報隊史料集』。
これはすごいや。今更ですが
■慶応2年から3年にかけて江戸詰めだった板垣退助。動向が気になる。
7日
■鹿児島県史料に、
慶応2年の建言書(小松帯刀・大久保一蔵・西郷吉之助の連名)が掲載されている。
しかし、小松と西郷は鹿児島、大久保のみ京都。年代比定に問題か?
■鎖国という用語が実際に世間で使用され始めるのは、幕末期に至ってから。
しかし、概念的には、老中松平定信(1759~1829)の対外政略として登場。その定信は、言わずと知れた幕政史上でも類まれなる政治家。
続き)老中在任期間中の天明7年(1787)から寛政5年(1793)にかけての、享保の改革、天保の改革とあわせて、江戸時代の三大改革と並称される寛政の改革の推進者。また、白河藩第3代藩主で、8代将軍・徳川吉宗の孫としても知られる。
■一般的には、ペリー来航をもって幕末がスタートしたイメージがあるため、
外国船と言えばアメリカ船が最初のように考えてしまうが、
実際には、外国船といえばロシア船と捉えられる時代が長く続いていた。
吉宗時代には既に房総まで達していたが、その動きが活発になってきたのが、
まさに松平定信の時代。
8日
■『藤岡屋日記 第十三巻』慶応元年閏五月~慶応二年五月
『藤岡屋日記 第十四巻』慶応二年六月~慶応三年三月
『藤岡屋日記 第十五巻』慶応三年四月~慶応四年三月
藤岡屋日記、入手困難。
■元治元年(1864)12月に書かれた、
征長副総督宛に五卿移転の猶予などを請う嘆願書が諸隊から福岡藩経由で出された。
署名は高杉晋作(谷梅太郎)と赤根武人以下の連名。
12月初旬と考えられるが、それにしても高杉と赤根の関係は、なかなか難しい。
9日
10日
11日
■江戸幕府は、朝鮮・琉球を朝貢国と規定し、日本型冊封体制を完成したが、
本来、朝鮮とは同等であり、現実との大きな隔たりが見られる。
これが幕末明治期の征韓論を形成する起点となり、
そして、この朝鮮をめぐる最終的な覇権争いが、日露戦争であった。
■中国とオランダについては、例外的に長崎において「通商」を認めていたが、
国家間の通商ではなく、
あくまでも商人による例外的・限定的な私貿易としての許容であった。
それ以外の冊封に応じない諸国は攘夷の対象であり、
あくまでも打払うことが前提であった。
12日
■小松帯刀・大久保利通・五代友厚の三者は、非常に仲が良い
■明治元年(慶応4年)以降、小松帯刀と西郷隆盛と接触状況を知りたい。
■明治12年9月12日、池田長発が死去。
鎖港談判施設・池田については、
『グローバル幕末史』の第七章「日本人、海を渡る-使節団と留学生が見た世界」で
詳解しています。
■朔平門外の変については、
拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩-島津久光と皇政回復』
(岩田書院、2010年)第3章
朔平門外の変-その背景と影響
(久光上京前後の中央政局/事変の経緯と薩摩藩への嫌疑
/事変後の政局における中川宮/事変の首謀者/姉小路公知暗殺の事由)
を参照ください。
■朔平門外の変は、
拙著『島津久光=幕末政治の焦点』
(講談社選書メチエ、2009年、第6章 朔平門外の変―薩摩藩最大の危機)
でも詳述しています。
■明治1年1月10日、楫取素彦は参与に任じられ、20日に制度寮掛を兼務した。
ところが2月9日、毛利敬親は木戸孝允「総裁局顧問・参与」
・広沢兵助「参与兼内国事務掛・大総督府参謀」
・楫取素彦「参与兼制度事務掛」の官職を解くことを申請した。
■明治1年2月20日、朝廷は長州藩主毛利敬親が奏請する藩士木戸孝允
・広沢真臣の辞職を止め、楫取素彦の辞職を聴す。
つまり、この段階まで楫取は長州藩のベスト3のポジション内にあったが、
辞職して長州藩に戻ったことになる。
この辞職がなければ、その後の歴史は変わったであろうか。。
■寺島宗則は、慶応3年(1867)10月には、
統一的で中央集権的な新国家建設を実現するため、
版籍奉還を求める建白書を小松帯刀に提出している。
この発想は、幕府が存在しているこの段階では、
思いもつかないユニークさを持つものである。
続き)この発案は、知られている限り、
明治元年2月、木戸孝允が三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書
を提出したよりも4ヶ月も早く、最も早いものである。
このあたり、拙著『グローバル幕末史』第8章
「幕末「極秘渡航」―長州ファイブと薩摩スチューデント」を参照。
https://kandagaigo.ac.jp/kuis/kuis_news/detail/0510_0000003532.html………
13日
14日
15日
16日
■『堀田正睦外交文書 千葉県史料 近世篇』、研究室書架にあり。
17日
■松平春嶽が言う「慶元時代」とは、南宋の寧宗の治世を指すか。
■『續再夢紀事』を、精読する授業をしてみたい。
18日
■「鎖国」「開国」は併存する。
「鎖国」が無ければ、「開国」はない。「開国」だけが、存在するはずがない。
「皇国而已鎖国難被成置形勢御座候」(「宸翰ニ対スル久光公ノ奉答書」、
『玉里島津家史料』2、史料番号783、598~602頁)。
鎖国は同時代の用語。
「君臣ノ名分ヲ明ニシ、一般ノ人心ヲ調和シ国家ノ大体ヲ制定シ然ル後、
外国ノ事ニ及ホサン。開鎖ノ論ニ至リテハ、天下ノ公論 ヲ以テ決定セン」
「官武の御一和ハ申す迄もなく開鎖の可否をも議定せらるゝ事」
■溝淵広之丞は明治40年まで存命。明治政府には出仕せず、
関連史料は東京大空襲で焼失したとされる。
■幕末期の松方正義をされている院生は聞いたことがあるが、
幕末期の黒田清隆はいない・・。いるわけないか(^_^;)
■明治期まで活躍した人物は、
どうしてもその印象を持って幕末期の行動を見てしまいがち。
どの人物も、幕末期があって、それから明治期。先入観は捨てなければダメ。
ちなみに、今その対象は黒田清隆、松方正義。
■松方正義や黒田清隆、
どうしても明治期の首相や大蔵大臣などとして関心がもたれるが、
実は幕末期の彼らも重要であり、個人的には強く意識している。
島津久光や小松帯刀、西郷隆盛の傍近くにおり、
また生麦事件、薩長同盟にも欠かせない。
■大久保利通に辟易する近衛忠房。
19日
■慶応期のみですが、小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛がどこに居て、
誰と会ったかをデータベース化する途上です。
■慶応2年9月、大久保忠寛は京都の松平春嶽に対し、
西周が上京するので、旅館に呼んで話を聞くように、繰り返しアドバイスしている。
■長州藩海軍局の詳細は、分からないものか・・。
例えば、メンバーなど。土佐浪士の池内蔵太も関係があるはずで、
重要人物としてマークしているが、これまた分からない・・。
■ちょうど2年前、小栗忠順日記を熟読していた。
驚くべき発見もあり、拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察
: 「三田品川戦争」への再定義」で活用した。
■川村恵十郎は、維新後、1873年に大蔵省出仕、1874年には内務省出仕し、
大久保利通に随行して清国に渡航している。1875年に正院出仕、
1877年に太政官、1883年に兼宮内省出仕。
1885年に内閣属、1890年に内閣恩給局勤務、1893年12月に退官している。
20日
■本圀寺事件の首謀者、
鳥取藩士・河田佐久馬は初代鳥取県権令になった人物であるが、
禁門の変でも長州藩と気脈を通じ、
有栖川宮熾仁親王を担いだクーデターを計画している。
時間が出来たら、もっと調べたみたい人物。
■今年は元治元年(1864)158年。参与会議(朝政参与)、天狗党の乱、
池田屋事件、禁門の変、四国艦隊下関砲撃事件、第一次長州征伐、
功山寺挙兵などから154年。
久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、宮部鼎蔵、佐久間象山、
平野国臣、真木和泉、中山忠光他、没後157年。
■戊辰戦争の終結によって、軍事力が削減されるのは当然の流れ。
しかも、徴兵制の方向性も模索されている。
特に、旧幕府軍を破った官軍の主力を担う長州藩の軍隊・諸隊は、
第2次長州征伐以降、膨れ上がっていた。
■長州藩においても、諸隊5000人は半分以下に再編成され、
身分が低いものほど切られており、脱隊騒動は起こるべくして起こった印象。
反乱した旧諸隊士1200人の中には、吉田松陰と因縁がある富永有隣が含まれる。
■木戸孝允は、長州藩閥の力を殺ぎかねない脱隊騒動に厳しい対応を行った。
一方で、前原一誠は諸隊士の解雇および脱隊騒動関係者の討伐に猛反対した。
そのため、木戸との対立は決定的となり、
前原は下野して萩の乱にまで行きついてしまう。
■当時の山口県要路の構成員を詳らかにできないが、
楫取素彦と高杉小忠太がいたことは確か。
高杉は、奇兵隊創設者である高杉晋作の父であり、
当時は山口藩権大参事。木戸孝允と諮って脱隊騒動を鎮圧した。
息子が作った奇兵隊を鎮圧するとは、因果なものである。
21日
■日米約定(下田条約)の歴史的意義をどう捉えるか。かなり重要な問題。
22日
■「福岡孝弟傳」、欲しい。
■『吉川経幹周旋記』を、もう一度舐めるように読みたいのだが、このところ時間がなくてできていない・・
23日
■今年は慶應2年(1866)156年。
「小松・木戸覚書」(薩長同盟)、寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)、改税約書、
第2次長州征伐、15代将軍徳川慶喜誕生、孝明天皇崩御などが154年前。
高島秋帆、赤根武人、徳川家茂、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、
お由羅の方などの没後155年
■島津久光の朝政参与就任は元治1年1月13日。
その日、武家伝奏野宮定功は留守居役内田仲之助を召し、
「不容易御時節ニ付朝議参予可有之、被仰出候、
依之従四位下左近衛権少将推任叙被宣下候事」を申し渡した。
その後、2月1日・大隅守兼任、4月11日・従四位上左近衛権中将昇叙。
24日
■中根雪江は、やっぱり重要。
それにしても、慶応期まで橋本左内が生きていればという妄想・・
■『続再夢紀事』はある意味、幕末史の縮図。肥後藩国事史料より読み易く、
挑戦し易い文献。
そう言えば、青山先生はゼミで以前、『続再夢紀事』を輪読されていた。
私も、機会があったら、ぜひやってみたい。もちろん、『昨夢紀事』なども
25日
■薩摩藩にとって、中央政局での難敵は上田久兵衛、そして原市之進
■岩瀬忠震、やはりただ者でない。
26日
■確かに、『新説 坂本龍馬』は上梓しているが、
龍馬研究においては、中村武生氏、知野文哉氏に遥か及ばない。
私の場合、薩摩藩研究の視点からの龍馬。
27日
■幕末の幕府海軍局は、御浜御殿にあった。
28日
■板倉勝静は、徳川慶喜が勝海舟を大嫌いだと放言してしまう。
■慶応2年、松平春嶽が執拗に勝登用を言い続けるので、つい本音が
■徳川慶喜が勝海舟を大嫌いな理由はなにか?
慶喜にしか分からないが、多分、自分に似たタイプだったからではないか。
それと、薩摩藩などにパイプがあることも、疑わしいと思ったことでしょう。
安田清人@sanzarutaishou
少年時代、将軍家慶の子初之丞(のちの一橋慶昌)の遊び相手として
召しだされた勝が、むしろ水戸藩出身でまんまと一橋家当主となった慶喜を
軽んじる風があったのでは?
勝のことですから、慶喜の前で慶昌や14代家茂を嫌味たらしく
持ち上げたんじゃないでしょうか。
29日
■歴史系番組で、歴史家のゲストが必ずしもそのテーマの専門家でないことが散見される。その場合、最後の詰めが甘くなる。場合によっては、トンデモに
30日
■中山忠能の情報網、やはり侮り難し。
■朝政参与(いわゆる参与会議)について、極めて形式的な諮問のみであり、
朝議参加とは一線を画することを論証したが、
いまだに参与会議を過大評価する歴史家が多い。残念である。
■朝政参与については、
拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復 』
(近代史研究叢書17 、岩田書院、2010年)
の第5章「朝政参与と慶・久光の相剋
(政変後の中央政局と久光の上京/孝明天皇の諮問と政変前後の国体論
/朝政参与と薩摩藩の周旋/朝政の転換と久光の挫折」を参照。
■文久3年9月は29日まで。
ちなみに、1863年9月30日は文久3年8月18日。
つまり、八月十八日政変が起こった日です。
■先ほどの話で、文久3年の9月は29日まで。
よって、155年前の9月30日は存在しません。
なお、文久2年は閏8月が存在するので、例えば、8月1日は2日間あるとも言えます。
■八月十八日政変は自分にとって意義深い。
「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について―8月18日政変を中心に」
(日本史研究会『日本史研究』539号、2007年7月)がすべての始まりだった。