1日

■長州藩では、薩長同盟というと木戸孝允だが、

楫取素彦、井上聞多、伊藤俊輔もかなり絡んでいる。

2日

3日

■何度も再び繰り返してしまうが、『木戸孝允関係文書』5巻が至急欲しい!

その事由は、広沢真臣および山田宇右衛門から木戸孝允宛の書簡を拝見したいから。

特に広沢!!関係各位、どうかよろしくお願いいたしますm(__)m

■少し前の情報だが、「人物叢書」、

個人的に気になる続刊予定書目一覧:

林子平(難波信雄)、有栖川宮熾仁親王(箱石大)、村田清風(梶原良則)、

木戸孝允(西川誠)、後藤象二郎(村瀬信一)、アーネスト・サトウ(内海孝)、

三条実美(川越美穂)、島津久光(寺尾美保)か・・。

4日

■慶応元年後半、木戸孝允を頂点に、

高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔は極めて強固な関係。

そこに、広沢真臣、前原一誠。ちなみに、伊勢華イコール北条瀬兵衛。

5日

■西郷隆盛のイトと結婚について、

「小松帯刀が媒酌人」としているケースを見かけるが、

当時小松は在京であったので、物理的に不可能である。

■文久2年(1862)閏8月、政治総裁職松平春嶽の主導の下、

文久の改革の一環として、参勤交代は3年に1回の出府に緩和し、

妻子の江戸居住制度を廃止していた。

諸侯の経済的負担を軽減し、国許の武備充実を図り、

挙国一致して外国に対峙することを企図した政策であった。

■第1次長州征伐後の幕府の矛先が薩摩藩に向かうことへの警戒心から、

島津久光は藩地に割拠して、

貿易の振興や軍事改革・武備充実による富国強兵を目指し始めており、

幕府から距離を置いて将来の戦闘に備えるという抗幕志向を明確にしていた。

続き)一方で久光は、武力を伴わない外交権の移行による事実上の幕府打倒、

つまり幕府を廃する「廃幕」を企図し始めていた。

このあたり、薩摩スチューデント・寺島宗則の外交交渉で明確となる。

6日

拙稿「池田屋事変における吉田稔麿について」

(霊山顕彰会 / 霊山顕彰会霊山歴史館 〔編〕

 『霊山歴史館紀要』16号、2003年4月)ですが、

改稿して「池田屋事変における吉田稔麿」(マツノ書店『松陰先生と吉田稔麿・増補版』)

に掲載いただきました。後者をご覧ください。

なお、「池田屋事変における吉田稔麿」の内容ですが、

「池田屋事変における吉田稔麿について、これまでの描かれ方を概観し、

事件の実相とも言える、

稔麿が池田屋事変時に池田屋自体に居なかった新事実を論証した。

また、稔麿の上京事由や遭難翌日の行き先について詳細に検討し、

後者については、四国艦隊の長州藩襲来に備えたものであったことを提示した。

また、桂小五郎が池田屋に参集しており、

その安否を気遣っての遭難であった点にも言及した」。

7日

■思った以上の先行研究がある場合、オリジナリティをどう求めるか。

一番得意の視角から迫るしかない。

■柴山良助:1867江戸薩摩屋敷に狼士隊が集まり江戸市内擾乱をはかった際、幕府の命をうけた庄内藩など4藩兵の焼打ちにあう。 その時捕えられ、翌年、伝馬町の獄につながれた。牢内でも大義を説いて屈せず、やがて免れ難きを知ってピストルで自殺した。1916(T5)贈正五位。<コンサイス日本人名事典>

■益満休之助:天保12年生まれ。薩摩藩士。慶応3年西郷隆盛の命で伊牟田尚平と共に江戸市中を混乱させたが幕府軍に捕らえられて勝海舟に預けられた。翌年新政府軍の江戸城総攻撃を目前にして幕府の使者山岡鉄舟を西郷にあわせるため駿府まで道案内をした。慶応4年5月22日死去。28歳。日本人名大辞典+Plus

■慶応4年3月2日、南部弥八郎は勝海舟に預けられたのか?

■『海舟日記』慶応四年三月二日「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は頭分なるを以てその罪遁るべからず死罪に所せらる。早々の旨にて所々へ御預け置かれしが、某申す旨ありしを以て、此頃、此事上聴に達し御旨に叶う。此日、右三人、某へ預け終る」

8日

■「日本國亞米利加合衆國修好通商条約并貿易章程」。

やはり、条文は自分自身で舐めるように読み解かないとダメだ。

■安政5年(1858)2月11日の通商条約勅許奏請に端を発し、

将軍継嗣問題も絡んだ朝幕間の政争は、

双方に甚大なダメージを与えた未曾有の政治的事象であった。

とりわけ、8月8日に下賜された戊午の密勅は、

それまでの大政委任体制を朝廷自らが否定し、水戸藩に勅旨が直接伝達され、

諸藩にも内報された極めて意義深い事件であった。

それによって勃発した安政の大獄は、中央政局に著しい閉塞感を齎し、

併せて密勅を拝受した雄藩の行動を著しく制約した。

9日

■江戸時代、最も改元が多かった天皇は、孝明天皇ではなかろうか。ちなみに在位された元号は弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応。

■前原一誠について、高杉晋作の功山寺挙兵に伊藤俊輔らと加わり、

クーデターを成功させ、その後、下関から伊佐に転戦して滞陣中の奇兵隊に合流した。

慶應元年(1865)1月の絵堂の戦いを境に、藩内の内訌は正義派の勝利に終わり、

前原は藩の枢要を占めることになった。

■前原一誠にとって、功山寺挙兵は人生の最初の岐路に立った選択であった。

この賭けに勝つことによって、活躍の場を与えられ、政務座役・用談役に就き、

大組士からなる干城隊の頭取や学校用掛を兼務し、木戸孝允が復帰すると、

広沢真臣らとともに政事堂を主宰。

まさに、藩行政のトップの一角を占めた。

また、前原一誠は慶應元年6月には宍戸備前とともに、

徳山藩政を改革するため同地に派遣された。

徳山でも内証があったためで、藩主や重臣らに説いて、

従幕・恭順派(俗論派)を駆逐し改革を断行させた。

これによって、前原の名声は徳山藩内に知れ渡り、

萩の乱にも呼応者が現れることになる。

■拙著『グローバル幕末史』では、正義党を「抗幕・武備派」、

俗論党を「従幕・恭順派」と呼称し直している。

 

 

10日

11日

12日

私は、慶応期の岩倉具視の研究は不十分であるが、文久期については、

拙著『幕末文久期の国家政略と薩摩藩-島津久光と皇政回復』

第2章 朝廷改革派の形成と「文久二年政変」を参照。

http://iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-643-7.htm…

13日

14日

■徳川慶喜とロッシュの関係は、やはり深く突っ込むべき案件。

パークスはロッシュが嫌いだが、ロッシュはパークスが大嫌い。

■板倉勝静、原市之進は慶応期研究のキーマン。

■ロッシュは、山師だな。。しかし、見抜けなくて当然。

15日

■慶応3年を論じる場合、パークスとロッシュは避けて通れない。

■パークスの慶喜評を確認する度に、まだ知らない慶喜が居るような気がする。

■慶応3年12月25日、三田品川戦争(いわゆる「薩摩藩邸焼き討ち事件」)が勃発した。

関東一円で乱暴狼藉を働く浪士を匿っているとし、

薩摩藩邸を取り囲んだ庄内・松山(庄内支藩)軍が一斉に砲撃を開始し、

邸内に突入したのだ。

立て籠もる170名ほどの浪士や薩摩藩士との戦闘は5時間に及び、

一帯は烈しい戦闘と化したのだ。一部の浪士らは脱出に成功し、

追手を撹乱するため放火しながら品川方面に遁走、

薩摩藩・翔鳳丸で上方への脱出に成功した者もいた。

12月28日、薩摩藩への強硬派の目付滝川具挙・勘定奉行小野広胖が上坂し、

議定就任が内定した慶喜に三田品川戦争の一報をもたらした。

三田品川戦争については、

拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察-「三田品川戦争」への再定義」

(軍事史学 56(3)、2020年12月)を参照。

強硬派に押されたためか、堪忍袋の緒が切れたためか、

慶喜は慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)元旦、

滝川に「討薩表」を授けて上京を指示した。

それを受け、1月2日に旧幕府軍の率兵上京が始まったのだ。

一方で薩摩藩・西郷隆盛は、

江戸藩邸を脱出した秋田藩浪士から慶応3年12月30日(大晦日)に

三田品川戦争の勃発を確認し、翌元旦に「残念千万之次第ニ御座候」と述べ、

新政府内が分断され、薩摩藩が狙い撃ちにされることを懸念していた。

そこに、起死回生の大事件が起ったのだ。

■慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、

旧募兵5000人、会津3000人、桑名1500人、

これに高松・大坦・浜田・小浜・忍等の諸藩兵が加わった大兵力を擁する旧幕軍は、

薩藩兵3000人、長州藩兵2900人の新政府軍と激突した。

数的には圧倒的に有利な旧幕軍側が完敗し、

6日午後10時、慶喜は老中板倉勝静、松平容保、松平定敬、目付榎本道章、

奥医師坪井信良らを従えて大坂城を脱出し、

開陽丸に乗船して上方から江戸に向かってしまった。

旧幕府軍は、大将に見捨てられた格好となったのだ。

そして、1月11日夜に慶喜は品川沖に到着し、翌12日に江戸城に将軍就任以降、

初めて入城を果たした。とは言え、もう将軍ではなかったが。

三田品川戦争という不測の事態から、

戊辰戦争の導火線として鳥羽伏見の戦いが勃発したが、

慶喜にとって新政府入り目前に起きた、まさに痛恨事であった。

慶喜がこの時、単独で上京していれば、その後の歴史は大きく相違したのではなかろうか。

歴史の展開は、まさしく紙一重である。

江戸に戻った慶喜は、当初は新政府に対して徹底抗戦を画策し、

慶応4年1月中に3回も仏公使ロッシュと会談して援助を受け入れる意思を示した。

また、江戸城内では小栗忠順を始めとした主戦派による徹底抗戦論が沸騰していた。

一方で、新政府は1月4日に仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に補任し、

かつ諸道に鎮撫使を派遣して、7日には慶喜を朝敵として追討令を発した。

慶応4年2月3日、明治天皇親征の詔が発布され、

9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に補任された。

東海・東山・北陸の鎮撫使を先鋒総督兼鎮撫使に改め、

三道から江戸に進撃を開始した。

御三家の紀州・尾張両藩、西日本の譜代藩が雪崩を打って新政府側に恭順を示し、

厳正中立を唱える列強の動向が追い打ちをかけた。

そして、何より朝敵となった事実から、復権は難しいと判断したためか、

慶喜は2月に入ると急速に恭順に傾き、12日には江戸城を辞して寛永寺に逼塞した。

西郷隆盛は東征大総督参謀となり、実質的な軍事責任者として参軍し、

3月7日に旧幕府の若年寄格・陸軍総裁の勝海舟の使者、山岡鉄舟と会見し、

江戸城明け渡しなどの絶対恭順を条件に、慶喜助命・徳川家存続を約束した。

西郷は3月14日に勝と正式な会談を行い、江戸城の総攻撃を中止し、

4月4日に江戸城を接収した。新政府は、慶喜の死一等を減じ、

水戸での謹慎を許可する勅旨をもたらした。

慶喜は、11日に謹慎所の寛永寺から水戸へ出発した。

ここに、慶喜の政治生命は終焉を迎えたのだ。

■Q:西郷隆盛の指示によって浪士たちが江戸攪乱作戦をしたというのは

史実でしょうか、、?

A:拙稿「薩摩藩邸焼き討ち事件に関する実証的考察-「三田品川戦争」への再定義」

(軍事史学 56(3)、2020年12月)で詳述しております

16日

■慶応元年閏5月28日、椋梨籐太「景治」を斬首し、

中川宇右衛門「以徳」に死を賜ひ(自害)、

進藤吉兵衛・工藤半右衛門・村岡伊右衛門を遠島に処し、

三宅忠蔵に謹慎を命じ、他人面会を禁じた。これによって、

長州藩の内訌は完全に終結を見た。

これを契機に、木戸孝允・広沢真臣・高杉晋作・前原一誠らの

正義党「抗幕・武備派」政権が誕生し、

武備恭順の藩是の下、次なる幕府の侵攻に備えることとなった。

それにしても、現在では広沢の影が薄い。

今後も、幕末ドラマでは無視し続けられそうな気配。

■元治元年後半まで、藩政を牛耳ってきた周布政之助のグループは正義党と呼ばれ、

椋梨政権は俗論党と呼ばれている。

拙著『グローバル幕末史』では、正義党を「抗幕・武備派」、

俗論党を「従幕・恭順派」と呼称し直している。

 

 

17日

筒井正憲がキーマンであることは、認定済。

慶応2年7月、島津久光・茂久父子の建白について、大政委任を口実に、

受け取り拒否を表明する朝議。

幕末期の正親町三条実愛研究、深化させねば。

堀次郎(伊地知貞馨)による薩摩藩邸自焼事件。

その驚くべき計画性と実行力 幕末維新人物伝2022(11)「江戸藩邸自焼事件の真実②」

18日

平岡円四郎もさることながら、安島帯刀に注目。

今からちょうど158年前、文久3年8月18日、

「三条実美・清末藩主毛利元純・萩藩支族吉川経幹・萩藩士・諸藩所貢の親兵等二千余人、前後鷹司関白邸に参集す。

邸内為に紛擾し、堺町門前、会津・鹿児島藩兵と萩藩兵、相対峙す。

勅使柳原公愛、鷹司邸に臨み萩藩士等を慰諭す。

続き) 経幹等、萩藩士益田右衛門介・久坂義助・桂小五郎、久留米藩士真木和泉

・ 高知藩士土方楠左衛門・熊本藩士宮部鼎蔵等と相議し、衆を率ゐて妙法院に退き、

徹宵去就を議り、終に一たび長州に還るに決す。

続き) 明旦、元純・経幹等、実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌

・錦小路頼徳・沢宣嘉を護り、諸藩士及親兵を率ゐて西下の途に就く」。

いわゆる「七卿落ち」

今日は八月十八日政変から158年目。この大事件には、思い入れが深い。

と言うのも、「文久三年中央政局における薩摩藩の動向について―8月18日政変を中心に」

という論文が2007年7月、日本史研究会『日本史研究』539号に掲載され、

今の出発点になったから。

八月十八日政変については、『島津久光=幕末政治の焦点』 

(「第7章 八月十八日政変―首謀者は誰か?」講談社選書メチエ )

および『幕末文久期の国家政略と薩摩藩 島津久光と皇政回復』

(「第4章 八月十八日政変-中川宮と久光の連携」岩田書院近代史研究叢書17 )

をご参照ください(^^)

ロシア軍艦対馬占領事件、もっと重視すべき大事件。

19日

159年前に長州藩で激徒に惨殺された幕府の使番・中根一之丞について、

爼橋に屋敷を構える渡辺甲斐守の7男、幼名は慶三郎と言い、

文久2年(1862)、26歳の時に中根宮内の跡目養子となった。

家禄は6000石、市ヶ谷長延寺谷一面が屋敷であった。

続き)翌文久3年の家督相続後、間もなく使番となり、3月の家茂上洛に同行した。

6月16日帰府後、長州藩への使番派遣を聞き及び、頻りに懇請して7月11日に命じられた。

ところで、中根一之丞のご子孫の方々と、実は親交がある。

中根一之丞については、江間政發「幕府使番中根一之丞長州に於て遭難の始末」

(『維新史料編纂會講演速記録』2、昭和52年復刻、347~364ページ)を参照のこと。

中根一之丞や朝陽丸事件については、

拙稿「幕末長州藩における朝陽丸事件について」

(山口県地方史学会『山口県地方史研究』92号、2004年)も参照ください。

朝陽丸事件について、少々。この事件は、

「糾問使である使番中根一之丞の派遣から殺害に至る一連の経緯」であり、

主として朝陽丸の馬関来航以降の、

奇兵隊激徒を中心とする朝陽丸借用強要問題と中根一行殺害事件である。

朝陽丸事件は、

文久国是における政令二途から派生された長州藩と小倉藩の確執から惹起した。

長州藩は三條実美等の「王政復古・天皇親政」派廷臣と結んで勅命を左右し、

監察使正親町公董の、一方の小倉藩は閣老や京都守護職に懇請し、

使番中根一之丞の派遣をそれぞれ実現させた。

しかし、攘夷戦で沸騰する渦中に、朝陽丸が小倉藩士を乗船させ来航し、

かつ、糾問書を将軍直書と偽ったため、

事態は長州藩による事実上の朝陽丸武力占拠に発展した。

これは長幕間における直接的な軍事的紛争の嚆矢であった。

朝陽丸事件を現出したのは奇兵隊であり、藩要路もそれを概ね追認しながらも、

解決への模索を繰り返していた。

その間、俗論党(「従幕・恭順派」)は攘夷実行に関しての鬱積から、

また、朝陽丸事件への藩政府の対応への不満もあって、

正義党(「抗幕・武備派」)への攻勢を強めた。

これ以降、長州藩では血で血を洗う藩内抗争が激化したが、

朝陽丸事件はその主誘因の一つであった。

この点は、見落としてはならない。

朝陽丸事件、2時間スペシャルドラマでやって欲しいな(^^)

朝陽丸事件によって、

長州藩において従来言われているような反幕的な色彩は藩全体を覆っているのではなく、

実は奇兵隊、特にその激徒によって主導されていた。

更に、定広やその側近を中心に政府はその動向を比較的容認し、

むしろそのエネルギーを利用して攘夷実行を実現している事実が浮き彫りになる。

続き)長州藩内には多様な勢力が存在していたが、

むしろ過激な反幕的勢力は少数派であった。

朝陽丸事件は幕末長州藩史における対幕府戦に繋がる直接的起点と位置付けられ、

また、藩内抗争の火種となった。その重要性は正当に評価されるべきである。

朝陽丸事件の情報は、思いのほか迅速にかつ正確に、当事者も含め、

様々なチャンネルを通じて幕府や朝廷にもたらされた。

とりわけ、中央政局全体に甚大な影響を与えたが、

特に西国問題の解決を目指す京都守護職松平容保にとっては、

最重要事象と捉えらた。

続き)また、西国鎮撫大将軍に補されようとした中川宮にとっても、

無視できない出来事であった。

八月十八日政変は、これらの解決も当然意識されており、

大きな動因の一つとなったことは疑いない。

続き)なお、朝陽丸事件は、幕府および西国雄藩によって、

政変後の長州藩パッシングの大きな誘因としても利用されており、

幕末史にとっても、極めて重要な事件であった。

20日

学会関係者(某理事)から、

「今、慶応期をまともに研究してるのは、町田さんだけ」と言われたことが、

比較的最近あった。。

禁門の変 ⇒ 元治甲子戦争 

薩長同盟 ⇒ 「小松・木戸覚書」 

大攘夷・小攘夷 ⇒ 未来攘夷・即時攘夷 

薩摩藩邸焼き討ち事件 ⇒ 三田品川戦争

八月十八日政変は「京地変動」、

禁門の変(元治甲子戦争)は「当地大変」と言われてました。

大攘夷・小攘夷は、大国隆正が同時代に言ってます。

薩長同盟は、明治10年ころから「薩長盟約」でしょうか。

参与会議は、当時の「朝政参与」。私はこれにこだわっています。

そもそも、会議の実態はなし。何をどこまでこだわるか、歴史観も影響しますね。

現在執筆中(脱稿はかなり先)の新書で再度論じます。

日米和親条約、全条全文をちゃんと読み解く。

21日

生麦事件については、拙著『グローバル幕末史』

 「第五章 薩摩藩の世界観―斉彬・久光に見る現実主義」

「3節 生麦事件と薩英戦争の真相」を参照ください。

第五章 薩摩藩の世界観―斉彬・久光に見る現実主義 3 

生麦事件と薩英戦争の真相    

生麦事件の真相―英国人リチャードソンはなぜ斬られたか 

生麦事件後の英代理公使ニールと小松帯刀の対応 生麦事件の三つの余波  

薩英戦争を招いた「誤伝」と、戦後の薩英急接近

 

 

22日

【歴史の交差点 神田外語大学客員教授 山内昌之】薩摩の中国人藩士

 

 

■「藩士」の定義とは?一見、当たり前過ぎるような事ほど難しい。

■大名の家臣は、つまり藩士は必ず分限帳

(家臣団名簿。主君は主従関係を持った相手は誰かを判別するツール)

に登載されることになるはずです。

【中村武生 歴史地理史学@busyo3】

坂本龍馬は「薩摩藩士」であるが、

「松平修理大夫家来」ではないとおっしゃっておられたのではなかったのでしょうか。・・・・

23日

『久坂玄瑞全集』を使い切れていない痛恨の極み。

■小田村伊之助(楫取素彦)の「維新史料綱要」の初登場は、

文久3年7月是月、「萩藩士高杉晋作・波多野金吾「広沢真臣」

・小田村文助「素彦、後楫取素太郎」等、

監察使正親町公董に小倉藩の五罪を数へて膺懲を請ふ。

公董、従士徳田隼人を京に急派し、朝裁を請ふ。

文助等、同行す」。志士活動スタート!

小田村伊之助(楫取素彦)は、勝海舟と濃厚な接触がある。

元治1年2月29日に「軍艦奉行並勝義邦、

長崎に於て萩藩士小田村伊之助等より聞く所の同藩情勢を、

在京の幕府有司に報じ、寛宥の処置を建議す」とある。

さらに、元治1年4月4日「軍艦奉行並勝義邦、長崎に於て萩藩士小田村伊之助と会し、

攘夷の不可を説き、東洋諸国の退嬰を主として、宇内列国と競争するの慨なきを論ず」。

この時期、勝海舟が接触している長州藩士は桂小五郎などがいるが、そう多くはない。

勝つというと、やはり薩摩藩の印象か。

小田村伊之助が勝海舟と面談した元治1年 4月4日、勝は坂本龍馬を同道している。

この時、両者が既に会っているかどうか、確認に至らないが、

会ったと考えるのが普通であろう。小田村=楫取素彦。

24日

小松帯刀を研究することで、島津久光、西郷隆盛、大久保利通、

坂本龍馬の異次元が見えてくる。小松は重要な存在。

徳川慶喜の慶応改革、もっと注目されてよい物。

25日

慶応2年6月18日、西郷吉之助は外国掛担当の家老新納刑部

および通訳として寺島宗則を伴い、

鹿児島滞在中のパークスを軍艦プリンセス・ローヤルに訪ね会談を行った。

このことだけで、論文が1本書けるほど濃密なものだった。

陸奥宗光の幕末時代、重要だがまだまだ分からない。。

26日

土佐浪士・細川左馬之助こと池内蔵太は、長州藩や坂本龍馬との関わりも深く、

かなり重要な人物であるが、その足跡がよく分からない。

ひょっとすると、ここにも絡むのかといった点もあるのだが、突き止めるに至らず・・

27日

慶応2年夏の薩摩藩VS会津藩の確執、根深い。これだけで、論文1本相当。

28日

樺山資紀の、幕末時代を知りたい。

「小松・木戸覚書」(薩長同盟)では、

1月18日、21日、23日それぞれに意義があると考えています。

本件は拙著『薩長同盟論』でご確認ください(^^) http://jimbunshoin.co.jp/book/b378164.html………

■長い長いと言われるが、私にとっての長いは、鷹司太閤、大御所家斉、老中水野忠精。

まあ、捉え方。

29日

■亀山社中の設立の経緯について、一般的には、「坂本龍馬が作った」ことしか、

実は言われていない。

30日

太宰府の薩摩藩陣営では、豚汁を振舞っていた。

土方楠左衛門も馳走されている。

実は、慶応2年研究が重要。

慶応元年(1865)2月、長州藩は大村益次郎を上海に派遣し、

壬戌丸の売却とその利益による銃器購入を命じた。

この件は、幕府が第2次長州征伐に踏み切る理由に挙げているもので、

極めて重要である。しかし、大村は上海に渡った事実を、その後生涯語っていない。

上海渡航はなっかとする説も出始めている。

なお、文久2年(1862)、大村益次郎はヘボン博士から英語を学んでいるが、

この件も語っていない。これは、幕府の委託生であったためか・・。

慶応元年(1865)閏5月、将軍家茂は大坂城に入ったが、

すぐには征討せずに長州藩の服罪を待った。

支藩主等の大坂招致の策略も不発に終わったため、

9月21日に至り、手詰まりとなった幕府は、長州征伐の勅許を獲得した。

その後も戦闘はなく、翌慶応2年(1866)1月、幕府は10万石削地、

藩主父子隠居等の処分案を確定した。

その後の交渉でも、長州藩は受諾を拒否したため、

6月7日、第二次長州征伐の幕が切って落とされ、

周防大島・芸州・石州・小倉の各方面で交戦状態となった。

■長州藩は、兵力で劣りながらも戦略で勝り各方面で勝利を重ね、

小倉口での老中小笠原長行の逃走、小倉落城によって、幕府軍の全面敗北に帰した。

徳川慶喜は自らの出陣を宣言していたが、この事態に衝撃を受けて休戦の勅許を得た。

この行為は孝明天皇の意向に背くものであり、一会桑勢力の破綻の起因に。

兵器も互角で圧倒的な海軍力を持つ幕府軍であったが、長州藩の最大の勝因は、

散兵戦術などの西洋式戦法に習熟していたことであった。

また、薩摩藩などの有力諸藩は大義がないとして参戦を拒否しており、

幕府軍の士気は当初から低かった。

かつ、老中が独断で捕虜を解放するなど、戦闘判断や指揮が拙かったため、

従軍諸藩の離脱を招いた。軍事政権である幕府は、この敗戦で権威を完全に喪失し、

幕末の政治段階は王政復古という最終局面を迎えることになった。

31日

本日は、『七卿西竄始末』からスタート。慶応3年3月。

慶応3年10月、慶喜が二条城にフランス人女性2人を妾として囲っており、

それを島津久光が諫言したとの根も葉もない風聞あり。

維新史料綱要では、長門府中藩として登場するが、一般的には長府藩。

長州藩の支藩の一つで、清末藩(長府新田藩)は長府藩の支藩。

なお、長州藩の支藩には、他に徳山藩と岩国藩。

岩国藩については、正確には慶応4年(1868)3月までは岩国領。

・・・慶應4年3月→明治元年3月・・・

何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性。

■最新・坂本龍馬三部作 

知野文哉『「坂本龍馬」の誕生』 

桐野作人『龍馬暗殺』

町田明広 『新説 坂本龍馬』

 

もちろん、松浦玲『坂本龍馬』は外せません。