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■これまでは、西郷隆盛・勝海舟会談の前に西郷にパークスの「恫喝」が届いたとされていたが、その後とされる意見が主流になりつつある。いずれにしろ、主戦派で強硬派の板垣退助が総攻撃中止に同意した最大の要因は、「パークスの圧力」であったこと疑いない。

■しかし、江戸・横浜間は半日の距離であり、「パークスの圧力」が会談前にもたらされていた可能性は排除できない。また、アーネスト・サトウの関わりについても、日記は空白であり、その他確固たる史料は残されていないものの、可能性はゼロではないとの判断をしている。https://tvu.co.jp/program/201701_edojomuketsu/…

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■「1年でも早く国の役に立って」-。大久保利通(1830〜78年)が幕末に薩藩英国留学生へ送った手紙がその一人、町田久成(1838〜97年)の遺品から見つかった。留学生への期待や、倒幕へ向かう国内の動きを伝えている。

 

 

■今からちょうど158年前、元治1年1月3日、「萩藩主毛利慶親、旧臘長崎丸撃沈の事ありしを以て、特に下関戍兵の軽挙妄動を戒む」。文久3年12月24日、薩摩藩の「長崎製鉄所借用之蒸気船」が兵庫から長崎に向かう途中、豊前田ノ浦から長州藩によって砲撃され、大きな犠牲が生じた事件。

続き)砲弾自体は命中しなかったものの、逃走時に火災を起こし、68人の乗組員中28名が溺死した。久光は29日に第一報を受け取り、「以ノ外ノ事也」と憤慨するが、「乍併私ニ曲直ヲ糺スべキニ非スニヨリ、右ノ趣一橋エ内談致置候事」と、冷静な対応をしている。

■島津久光四天王とは 小松帯刀(天保6年:1835~明治3年:1870) 中山中左衛門(天保4年:1833~明治11年:1878) 堀次郎(伊地知貞馨、文政9年:1826~明治20年:1887) 大久保利通(文政13年:1830~明治11年:1878)

■島津久光四天王の中山中左衛門について、明治9年(1876)1月、大久保利通らの暗殺を企てた激徒に連座して捕縛され、懲役10年の刑を科せられ、明治11年(1878)に国事犯として獄死している。

■続き)文久期前半には、小松を凌ぐ権勢を誇り、四天王の中心であった中山が、事もあろうにかつての盟友・大久保暗殺を謀ったことに、茫然自失の感を抱かざるを得ない。まさに、事実は小説よりも奇なりである。

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