・・・薩土盟約を広島藩の見解から説明。
広島藩の幕末史「藝藩志」に依れば、薩土盟約に藝州が加わった経緯は以下。
慶応3年1月5日に幕府に環政建白(朝廷に政権を返上すべし)をした広島藩は、
王政復古を目指し、
京都に於いて親交のある諸藩の賛同を取り付ける活動をしていた。
(鳥取、備前、阿波、淡路、宇和島、越前、薩摩・隅州等)
藝州執政・辻将曹が薩摩藩家老・小松帯刀の協力を得ようと話を持ち込んだところ、
土佐の後藤象二郎にも話をして欲しいと言われた。
この時、薩土盟約は不成立だった。
【6月14日、後藤象二郎と西郷吉之助(隆盛)等は協議、
「約定の大綱」を策定したものの、
温和手段主張の後藤と武力討幕派の西郷の間で折り合いがつかず、
合意に至らなかった】と記されている。
つまり、薩土盟約は協議したものの、不成立に終わったという。
そこに広島・辻将曹から話が持ち込まれた事で、
薩摩・小松帯刀は我が意を得たりと思ったのかもしれない。
小松帯刀と西郷吉之助の間でも意見が分かれていた為だ。
辻が薩土の面々の前で改めて説明をしたところ、
藝薩土で京都に兵を差し向け、
これを背景に政権返上を迫るべく三藩連署にて建白書を提出し、
応じなければ武力討幕もあり得るとする事で、
西郷等武力討幕派を説得した。
後藤は山内容堂の許可を得て往復廿日で兵を率いて上京すると約束。
ところが、9月3日にもなって後藤から、
「環政建白は許可されるが、出兵は許されず」と聞く。
藝薩土同盟も不成立となった。
土佐藩は二度も盟約を不成立にしたが、それだけでは終わらなかった。
ここから「薩長藝軍事同盟+土佐盟約」へと向かう。