*薩土盟約、薩土藝盟約が相次いで不成立になった後に

 紆余曲折あった後に成立。

*便宜上「薩長藝」としているが、

 広島藩が朝廷、幕府、長州の周旋を行っていた関係で

 薩摩、長州、土佐の意見をまとめて主導的に動いていた為、

 実際には「藝薩長軍事同盟」であった可能性が高いと考える。

 

薩摩は外国との密貿易と偽金で雄藩になったが、

長州では攘夷の嵐が吹き荒れていて、

薩摩が外国と密貿易をしているとして薩摩船を攻撃していた。

*薩摩船攻撃については、

「郷土物語第十八(大島郡戦記)」〔長州依り)

P134~P164に記述がある。

又、広島藩領内でも、大崎下島御手洗(呉市)を焼き討ちするという

噂が立った為、広島から山口表まで申し入れに行く事にもなった。

安全に関門海峡を通過したい薩摩は、最新の武器を長州に仲介、

藝州ー御手洗ー薩摩、藝州ー宮島ー長州の商取引を、

慶応2年には薩摩ー長州で直接取引したいと藝州に申し入れするに至る。

これにより、薩摩は(藝州を通さずに)長州の米を直接仕入れ、

長州は最新の銃砲を薩摩の仲介で購入する事になる。

(当時、国境封鎖されていた長州の生活物資を藝州が提供していた一方、

繰り綿、鉄鍋(銃砲弾の材料)等を薩摩に提供していた。)

その関係で薩摩、長州、藝州は経済的に結びつきが強かった。

 

薩土藝盟約が不成立になったなら、

次は「長州を仲間に・・・」というのは自然な流れで、

三藩共に望むところだった。

この薩長藝盟約、三藩進発と同時に、

藝州、土佐は還政建白書を提出するはずだったが、

薩摩は既に還政建白書の提出の段階ではないと判断し、

建白書の提出には加わらない事になっていた。

  

慶応3年10月3日、土佐・後藤象二郎が事前申し合わせを無視、

藝州に連絡をせず勝手に単独で環政建白書を提出した。

ここには軍事行動を行わない土佐藩が存在感を示して、

今後の発言力を持ちたい意図があったのでは無いかとする見方がある。

この時、幕吏某から後藤象二郎が

「この建白を採用しなければ、薩長藝が軍事侵攻することになっている」

とリークしたという情報が入った為、

藝州・辻将曹が軍事行動の中止を指示した。

  

ジャーナリストで小説家の穂高健一氏は、

この頃に、理由不明で中岡慎太郎が後藤象二郎に怒っていたのは、

この事件と関係あるのではないかと考え、

小説「広島藩の志士」の中でフィクションで書いている。

藝州・船越洋之助が執政・辻将曹に問い詰め、

土佐・後藤象二郎から抜け駆けの詳細を知った。

怒りが収まらないでいる船越に

長州・品川弥二郎が軍事行動中止の事を責め立てた。

船越は怒りに任せて品川に経緯を全てブチ捲けた。

すると今度はその場に居た土州・中岡慎太郎が

後藤象二郎を刺すとぶち切れた。

勿論、フィクションであるが、

理由不明で中岡慎太郎が後藤象二郎に怒っていたのは本当らしい。

(自分では未確認です)

 

「藝藩志」にはこの頃の記述に永井主水正の名前が頻出する。

前後の話からすると永井主水正とは頻繁に連絡を取り合っていた様で、

辻将曹は幕吏・永井主水正から

「後藤象二郎が言った事は本当か?」と問われて、

抜け駆けされた事を知ったものと思われる。

そこで慌てて藝州も建白書を提出した。

「藝藩志」には

「土佐の建白書で大いに心を動かされたが、

反対意見が強く決断には至らなかった。

しかし、藝州からの建白書で断然決断するに至った」

とも幕吏某から聞いたとされる。

幕吏某は、やはり前後の流れから自然と永井主水正と推定される。

ただ、この進発中止が薩摩や長州等のハシゴを外す事になってしまい、

一部公家や薩長から批難される元にもなってしまった。

但し、薩摩は藩論が分かれてまとまらず、

現実に出兵出来ていなかったのだから、

薩摩が批難するのは筋が通っていない。

 

「藝藩志」には、

藩論が一致しない薩摩と朝敵解除の沙汰が欲しい長州から、

【討幕の密勅】が欲しい」と要望が出た。
朝廷は、藝藩が加わっているのなら信用しても良いだろう

という事になったという。
岩倉具視が玉松操に作らせた偽物の密勅を交付したと書かれている。
藝藩には天皇を護衛する為の出兵という大義名分があり、

年寄筆頭(執政)辻将曹には討幕の意図が無かった為、要望しなかった。

(広島藩にはお金が無かった為、極力不要な軍事行動は避けたかった)  

果たして大政奉還が実現して討幕の密勅は中止とされた。
それでも天皇の護衛をするという大義名分は残る。

薩摩が藩論をまとめて出兵するまでは1ヶ月以上を要し、
長州兵を連れて御手洗港(呉市大崎下島)に現れたのは11月26日だった。

 

その前、坂本龍馬の暗殺(11月15日)の前には、

御手洗に於いて三藩進発について協議が行われたと

11月初旬の木戸の行動から推察出来る。

「御手洗密議」

薩長藝軍事同盟(三藩進発)が実現したが、既に大政奉還が実現し、

軍隊を持たない天皇を護衛し、旧幕勢力を牽制する為の出兵であるのに、

未だ討幕熱が高まって行く様子を危惧した藝藩・辻将曹は、
進発中の危険分子(主戦論者)を広島に呼び戻し、

鳥羽伏見の戦いでは攻撃禁止を命じた。

(世子・浅野長勲の軍は参戦している)

ここから広島藩主導の無血革命ではなくなってしまい、

急速に存在感を失っていくことになる。

特に薩長土が互いに新政府でマウントを取りに熱心だったのに対し、

広島藩内には上下関係が確立していた為、

のし上がろうとする者が居なかった。

 

また、広島藩自体も世子浅野長勲の積極姿勢と

年寄筆頭・辻将曹等の慎重派の間で対応が分かれた。

浅野父子を慕う広島藩領民(広島県民)が多かった事からも 

これまで藩政・外交を主導していた辻将曹の指導力の低下は否めなかった。