「青天を衝け」(12)「栄一の旅立ち」

 

内容:

栄一、喜作、円四郎との思いがけない出会い。

血洗島に戻り、喜作、惇忠らと高崎城乗っ取り計画を進める栄一。

そこに長七郎が戻り、涙ながらに中止を訴える。

計画の行方は・・・

 

役人に追われる栄一と喜作をぼろ屋に引き込んだのは、円四郎だった。

円四郎は一橋家に仕えないかと勧めるが、栄一たちは断る。

血洗島村に戻った栄一は、惇忠等と高崎城乗っ取り計画を進める。

そこに京都から長七郎が戻り、涙ながらに中止を訴える。

計画を断念した栄一と喜作は、八周周りから逃れ、再起をはかるため、

村を離れ京に向かうことを決意する。

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1>町田 明広@machi82175302 5月2日

本日は「青天を衝け」12回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。

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「青天を衝け」12回目を拝見!決起を押し止まるか否か、長七郎と渋沢らの激論にその場に居るような高揚感を覚えたが、それぞれの家族の絆が巧みに描かれ、涙を誘われた。平岡の豪放磊落さ、川路の老獪な雰囲気、長七郎の鬼気迫る熱情、どれもこれも素晴らしく、見事な血洗島編の最終回!
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渋沢うたちゃんの、あまりの可愛さに打たれる。最期の一直線に空に伸びる雲、青天を衝け!清々しい。
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復習も兼ねて、文久3年(1863)4月頃からの渋沢栄一の動向について、少々振返ってみよう。渋沢は父・市郎右衛門の許しを得て、再び江戸に出て海保塾および千葉塾に正式に入門した。7月に坂下門外の変で闘死した河野顕三「春雲楼遺稿」を刊行している。河野の影響は大きい。
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4月以降の4ヶ月間、時々帰郷して攘夷について議論し、また渋沢・尾高惇忠は武器類を買い集めて実家に隠匿した。栄一はこの頃を述懐し、「朝廷からは終始かわらずに攘夷鎖港の勅諚があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循して居て」(『雨夜譚』)と幕府を批判している。
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文久3年8月頃、渋沢栄一は尾高惇忠渋沢喜作と3人で「幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回する」ため、攘夷実行の計画を密議した。高崎城を乗っ取り、武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を襲撃。焼き打ちして外国人を残らず殺害する無謀な計画を立案した。
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この横浜焼き討ち計画は、文久3年11月の冬至の日、総勢69名(渋沢、尾高惇忠・長七郎、渋沢喜作、千葉塾で懇意の真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎海保塾中村平三郎、その他親戚郎党など)で決行することを決定した。正真正銘な志士・渋沢栄一の誕生である。
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9月13日、渋沢は既に身を以て国に殉ずる決意をしたため、父市郎右衛門に家督を辞すことを希望し徹夜で議論した。明け方になって遂に許可を得た。翌14日、挙兵準備のため江戸に出て約1ヶ月滞在し、10月末、帰郷し土蔵に秘匿した武器類を整理し、役割分担を策定するなど挙兵準備を進めた。
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文久3年の江戸滞在の時期、渋沢栄一は一橋家の家臣たちと急速に接近を果たした。特記すべきは、川村恵十郎と知り合い、その紹介から用人・平岡円四郎の知遇を獲得したことである。家臣団が手薄な一橋家から仕官の誘いがあったが、攘夷実行を優先して辞退した。まあ、当然のことだが。
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川村恵十郎(正平)について、天保7年(1836)7月7日、江戸に生まれた。安政2年(1855)2月に小仏関所番見習となる。文久3(1863)5月、朝廷と幕府方の折衝に関連した建白書を一橋慶喜に提出し、農民募兵に尽力した。
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川村恵十郎は、文久3年12月に一橋家に普請役見習として仕官した。その下役に渋沢栄一と喜作がいた。京都から江戸・駿河へと、常に慶喜に随った。しかし、平岡円四郎、黒川嘉兵衛原市之進の陰に隠れ、一橋家の実権を握るまでには至らなかったようだ。
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川村恵十郎は、維新後、1873年に大蔵省出仕、1874年には内務省出仕し、大久保利通に随行して清国に渡航している。1875年に正院出仕、1877年に太政官、1883年に兼宮内省出仕。1885年に内閣属、1890年に内閣恩給局勤務、1893年12月に退官している。
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川村恵十郎は最晩年、日光東照宮禰宜を1898年3月まで務め、1898年6月13日に死去した。川村は明治31年まで存命であったが、明治以降のことになると知られていないことが多い。研究対象にすべき人物の1人。
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なお、川村恵十郎について、憲政資料室「川村正平関係文書」がある。一橋家関係、大蔵省・内務省出仕時代の書類457点、日記1冊(『御巡幸御用取調局仮日記』)、幕末から明治期の書簡約340通が保存されている。
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中根長十郎(1794−1863)について、寛政6年生まれで天保9年、一橋家に仕え、のち慶喜の側用人。文久3年10月23日、江戸雉子橋で即時攘夷派の浪士に殺された。70歳。慶喜の上洛直前の凶行であったが、ドラマで川路が平岡に警告していたが、先に中根に害が及んだ。
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本日は、川路が水戸藩士に狙われていると平岡本人に告げ、また平岡が「川村恵十郎に斬られるぜ!」的なことを口走ったが、これは平岡暗殺の伏線と見た。
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一橋家には有能な家臣がいた。中根長十郎を始めとして、平岡円四郎、原市之進などの有能な家臣も非業の死を遂げた。彼らが皆存命で将軍となった徳川慶喜を支えることができれば、などと、ふと夢想してしまう。それにつけても、川村恵十郎の家臣団での位置づけが気になる。

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さて、話を戻そう。渋沢栄一に仕官を断られた平岡円四郎川村恵十郎は、岡部藩主に渋沢らの召抱の許可願を提出している。平岡はどうしても渋沢を手に入れたく、密かにこうした策略を実行していたのだ。実際の仕官時も含め、平岡の熱意が無ければ、「渋沢栄一」は存在していなかった。
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川村恵十郎の日記によると、「九月廿六日庚午晴一朝平岡行今日出勤之由渋沢両人模様大ニ宜敷もはや今日明日之内安部摂津守殿江懸合ニ相成候由」(川村襍日記)とあり、その事実を確認できる。平岡だけでなく、川村の動向も渋沢栄一にとって極めて関りが深いものであった。
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しかし、平岡円四郎・川村恵十郎の働きかけは空振りに終わる。岡部藩は渋沢栄一の一橋家への仕官に難色を示した。その詳しい事情ははっきりしないが、自藩の農民が武士に取り立てられることに、何かしらの面白くないとする事情があったのか。
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文久3年9月13日、渋沢栄一らは急使を京都に派遣して、尾高長七郎の帰京を催促した。横浜焼き討ち計画の実行が迫ってきたためである。長七郎は坂下門外に連座し、信州経由で京都に逃避し、以降は即時攘夷を標榜する長州藩が席巻していた中央政局の動静を探っていた。
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10月29日夜、京都情勢探索から25ないし26日に帰郷した尾高長七郎も加え、下手計村の尾高惇忠宅の2階で、渋沢栄一・惇忠・渋沢喜作・中村三平の5人で横浜焼き討ち計画の詰めの評議を行った。
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尾高長七郎は、八月十八日政変の勃発など、即時攘夷派が逼塞せざるを得ない中央政局の情勢を説明し、横浜焼き討ち計画の中止を主張した。渋沢栄一は決行を主張したが、大激論の末に中止と決定した。
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「長七郎の考へは、丸で反対で、種々に異論があつた、今日から見ると、其時長七郎の意見が適当であつて、自分等の決心は頗る無謀であつた、実に長七郎が自分等大勢の命を救つて呉れたといつてもよいといふ」(雨夜譚)と渋沢栄一は述懐している。
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幕府に捕縛される危険もあったため、11月8日に渋沢栄一は喜作とともに、伊勢参拝を兼ね京都見物に出発すると吹聴して出村した。江戸に出て平岡円四郎の家来の名義を獲得し、14日に京都へ出立したのだ。
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渋沢栄一・喜作の京都行き関しては、川村恵十郎の配慮、そして平岡円四郎の事前の了解があって初めて可能となった。平岡はある程度、この展開を予想していたのかも知れない。
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渋沢らは文久3年11月25日に入京し、それ以降は志士と交わり、12月中旬に至り伊勢大神宮を参拝した。いよいよドラマは元治元年に突入する。まさに激動の京都である。
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文久3年の慶喜の上洛は2度目。1月は陸路で、10月は海路。この後、朝政参与(いわゆる参与会議)が実現するが、このあたりはスキップだろう。勝海舟の名前は登場したが、キャスティングされず。いずれ登場するはずだが、大物か??
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八月十八日政変の前後の経緯について、ドラマを理解するためにも少し触れておきたい。文久3年春、朝廷に迫られた幕府は即時攘夷に転換したと宣言したものの、対外的には通商条約を破棄しておらず、実際の対外方針は、未来攘夷のままであった。
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しかし、幕府が朝廷に攘夷実行の開始日と宣言した5月10日、長州藩は下関でアメリカ商船を砲撃し、その後も外国船への攻撃を繰り返した。5月10日を期して、下関戦争が始まったのだ。こうして、即時攘夷派はいよいよ実力行使に出始めた。

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文久3年の前半は、未来攘夷vs即時攘夷、言い換えればその本質は幕府vs長州藩であったが、これによる内乱寸前の状態の中で、対外戦争の危機に陥ったのである。行き過ぎた即時攘夷派に鉄槌が下ったのが、同年の八月十八日政変である。
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孝明天皇をはじめ、中川宮近衛忠煕・忠房父子などの上級廷臣は、三条実美ら激派廷臣と同様に通商条約を否定し、鎖国に戻すことを期待していたものの、外国との全面戦争までは想定していなかった。
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ましてや、自ら攘夷の先頭に立つことなど、絶対に阻止しなければならない事態であった。そこに追い込まれそうになった孝明天皇が、中川宮に依頼して実行したのが八月十八日政変だが、その画策はもっぱら薩摩藩が行い、会津藩が武力を提供して実行が叶った。
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これにより、即時攘夷派である三条実美長州藩は京都から追放され、即時攘夷は過激であるとして退けられた。しかし、幕府の意に反して、朝廷の通商条約破棄の方針は不変であった。そこで幕府が持ち出したのが、横浜鎖港という折衷案だった。
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横浜鎖港とは、当時開港していた箱館・横浜・長崎の三港の中で、最大の貿易港である横浜を閉鎖するプランである。朝廷内では一港のみの閉鎖に対して反対意見が多かったが、貿易をほぼ独占していた横浜の鎖港は、実質的には通商条約の破棄に等しく、それが新たな国是となった。
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しかし、横浜鎖港を締結国が同意するはずもなかった。幕府は文久3年12月に正使外国奉行池田長発、副使外国奉行河津祐邦に目付・随員・従者が加わり、総勢33名という横浜鎖港談判使節団をヨーロッパまで派遣するなど、本気で横浜鎖港を目指したものの、まったく相手にしてもらえなかった。
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ちなみに、その時の遣欧使節は2回目のことで、最初は開市開港延期交渉のために文久2年(1862)に派遣されている。この時は、通商条約で取り決められていた兵庫・新潟の開港、江戸・大坂の開市を5年延期するロンドン覚書の調印に成功していた。

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尾高長七郎役の満島真之介さんとは、ザ・プレミアム「時空超越ドキュメンタリードラマ 江戸城無血開城」で満島さんがアーネスト・サトウを演じられ、私が時代考証をした時、親しくさせていただいた。メチャ明るくて気さくで、ナイスガイだった。今日も素晴らしい演技だった。 
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次週から、いよいよ舞台は京都に移行しますが、五代友厚(才助)、土方歳三も登場しますね!どのようなシチュエーションでの登場か、気になります!!一橋家家臣として武士になった渋沢栄一の大活躍、今から非常に楽しみです。
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NHK青山・新講座(対面:5月スタート)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
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NHK青山・新講座(対面:5月スタート)「新説 坂本龍馬」
5/15(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
日時未確定 大政奉還と龍馬暗殺
http://nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
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JBpressで連載を開始しました。渋沢栄一と時代を生きた人々「渋沢栄一」①②③④、「井伊直弼」①②③が公開中です。ぜひ、ご覧下さい!
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64843
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今年は8月高知、9月鹿児島で講演予定。はっきりしましたら、告知いたします。

 

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1>桐野作人@kirinosakujin 5月2日
今日は仕事の関係で、大河ドラマ関連のツイートは一橋慶喜関連を少しだけ。
まず平岡円四郎の羽織の家紋は「丸十」でしたね。これには驚きました。
あと、慶喜が幕府軍艦の順動丸で上洛する場面がありましたが、これは文久3年(1863)10月26日です。上洛は前年12月に次いで2回目です。
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慶喜の1回目の上洛のときも当初、海路でいう意見あり。それを主張したのは軍艦奉行並の勝安房。勝の日記によれば、当初、慶喜の軍艦での上京という内命が下ったが、陸路説も強かった。勝は「我れ力を極めて闘論、説得すといえども、俗論陰に盛んにて朝令夕変」した。
3>
このとき、慶喜の海路上洛が実現していたら面白かった。当時、坂本龍馬が勝安房の配下になったばかりだった。結局、勝は軍艦順動丸で老中格の小笠原長行を乗せて上坂する。これに龍馬と千葉重太郎も乗船している。慶喜も乗っていたら、当然、龍馬と話をしただろう。
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慶喜は文久3年4月、孝明天皇の石清水行幸に供奉してから、陸路江戸へ下る。江戸での滞在は半年ほどで、2回目の上京は10月26日で、このときは築地操練所から軍艦蟠龍丸に乗り、浦賀で順動丸に乗り換えている。ドラマの場面はこのとき。ただし、この上洛では勝安房は同行していない。
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興味深いのは慶喜の江戸滞在の半年間。一橋徳川家の用人日記によれば、幕閣や外国奉行など要路の役人たちとの会合がかなり多いが、幕府関係者以外の会見はほとんど薩摩藩士たちであるのが面白い。5/16高崎猪太郎、10/6重野安繹、10/14新納嘉藤次、吉井幸輔、10/22大久保一蔵、重野安繹。
*用人日記=『新稿 一橋徳川家記』
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8・18政変で長州勢力を排除したことで、幕府と薩摩藩は連携することになったが、慶喜が薩摩藩の重要人物たちと度々面談した理由は何だったのか。ひとつは薩英戦争後なので、慶喜はその実戦談を聞きたかったか? なお、平岡円四郎はその間に、慶喜の要請で本高100俵を与えられている。
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日記に同行者として「良順」とありますが、松本良順でしょうか? 玄貞という人もいて奥医師風ですね。
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慶喜と薩摩藩士たちの会見だが、重野安繹と2回も会っているのを見ると、横浜で開かれた薩英の講和交渉と無関係ではないだろう。慶喜は英国の動向と和平の成行を注視していただろうし、薩摩側は慶喜に交渉の助力を求めたか?
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大河ドラマ「青天を衝け」。チラリと思ったことだが、渋沢栄一と坂本龍馬の類似性。身分は多少違うが、共通点は正規の武士ではなかったこと。あと、文久年間、攘夷運動の激化のなかで、それから離れて慶喜や勝安房といった幕府側に仕えたこと。攘夷派からみれば、裏切り行為といえる。
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攘夷派からの論難に対して、渋沢は攘夷の家元、烈公の秘蔵の息子に仕えて何が悪い。龍馬は海軍を興して大攘夷を行うぜよ。でも、水戸攘夷派の攻撃で平岡や原市之進が犠牲になったため渋沢は存命できた。2人は当時の潮流からズレて独自の道を歩いたので、むしろ、名を残したともいえる。
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昨日の大河ドラマに、波岡一喜さん演じる一橋慶喜の家臣、川村恵十郎(正平)が登場。無言で不気味な感じだった。実際、天然理心流の使い手のようですね。彼は相模、甲斐との国境、甲州街道の小仏関の関守の出身ですね。同じ関所(駒木野関)出身で10歳くらい年長に落合源一郎直亮がいる。
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川村は平岡円四郎の配下だったが、平岡が水戸攘夷派に襲撃されたとき、それを迎え撃ち、2人を斬り倒したという。詳しくはドラマのお楽しみ。
それより、川村は慶喜家臣になったが、先輩の落合は国学者で、一度は清河八郎などとともに浪士徴募に応じて上京している。
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だから、近藤勇や土方歳三と同じ道を歩んでもおかしくなかった。落合は文久3年(1863)には天誅組の大和挙兵に、翌元治元年には天狗党の挙兵に応じようとした。渋沢らと近い思想、位置にいた。天狗党挙兵の前後に知り合ったのが小島四郎、のちの相楽総三である。
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相楽総三は旗本酒井錦之助の家来。文久3年に幕府関係に提出したと思われる上書(西澤朱実氏発表)が意外な内容で興味深い。攘夷を訴えながらも、幕府を非難し、京都周辺で狼藉する長州系の浪士たちを成敗すべきだと主張。攘夷派といっても一括りにできない。
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宮地正人氏は、関東出身で幕府に親近感をもつ攘夷派を「東国勤王派」と定義した。渋沢も、川村も、落合も、近藤・土方も、相楽もこの系譜とみてよいのかも。攘夷派といっても一様ではなく、西国の長州や土佐系だけの専売特許ではない。のちに彼らの去就は分かれ、敵対関係にもなっていく。