★慶應1年12月2日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、箱館領事館敷地に関する協議の為、外国奉行栗本鯤「安芸守」及箱館奉行の横浜派遣を請ひ、また、若年寄大給乗謨との会見日の指定を求む」。

★慶應1年12月3日、「浪士田中顕助「光顕・元高知藩士」下関より書を両親に寄せ、前年三田尻脱走以来の動静を告げ、萩藩の内情を報ず」。

★慶應1年12月5日、「老中板倉勝静「伊賀守・備中松山藩主」・同小笠原長行「壱岐守・唐津藩世子」書を前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」に寄せ、頃日鹿児島藩に不当の態度あるを以て、同藩を暁諭せんことを依嘱す。尋で「8日」慶永、重臣を召し、之を協議す。9日書を勝静等に復し、侍臣中根雪江「師質」を上坂せしむべきを告ぐ。又「11日」書を鹿児島藩主茂久生父島津久光「大隅守」に寄せ、時事所見を問ふ。「会津藩の依頼に依ると云」」。
★慶應1年12月6日、「鹿児島藩家老桂久武・岩下方平等、上京の途に就く。西郷吉之助、書を在藩の側役蓑田伝兵衛に寄せ、江戸藩邸役所撤廃を主唱せる理由を陳じ且京情を報ず。麾下士柴田東五郎なる者、黒田清綱を大坂の仮寓に訪ひ、幕府の征長進発の窮状を告げ斡旋を求む」。
★慶應1年12月7日、「鹿児島藩士寺島陶蔵「宗則・変名出水泉蔵」英国より書を同中原猶介に寄せ、欧州諸国の強盛なる所以を論じ、我が国に組合を興して産業の振興を計り、列強と使節を交換し、挙国一致して国威を四方に輝すべき事を説く」。

★慶應1年12月15日、「大目付永井尚志の従士近藤勇・同伊東甲子太郎・同武田観柳斎、新湊「周防国玖珂郡」に至り、萩藩支族吉川経幹の家士に会見を求む。明日、経幹、藩情を陳じて之を拒絶せしむ」。

★慶應1年12月16日、「大目付永井尚志・目付戸川安愛・同松野孫八郎、広島を発し、明日、大坂に帰著す。尋で「十八日」登城、萩藩糺問の顛末を復命す。征長軍目付斎藤図書等、小倉に着す。仏国全権公使ロッシュ、征長進発に依り、大将軍徳川家茂に短銃二挺を贈る」。

★慶應1年12月22日、「新撰組隊長近藤勇等、広島より京都に帰著し、会津藩士野村左兵衛「直臣」に萩藩の状況を報ず」。
★慶應1年12月28日、「鹿児島藩士黒田了介「清隆」下関に至り、萩藩士木戸貫治に上京して、同藩家老小松帯刀「清廉」・同藩士西郷吉之助等と薩長同盟を協議せんことを説く。浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」亦同地に在りて之を勧む。萩藩主毛利敬親、貫治に上京を命ず。是日、貫治、了介及藩士品川弥二郎「変名橋本八郎・御楯隊士」・三好軍太郎「重臣・変名会田春輔・奇兵隊士」・早川渡「遊撃隊士」等と三田尻を発す」。
★慶應1年12月29日、「福井藩士中根雪江、禁裏守衛総督徳川慶喜に謁し、萩藩の処置に関して問ひ、且寄合大久保忠寛・同勝義邦の登用を説く。英国蒸気船一隻、下関に碇泊し、即日、東航す」。
★慶應1年12月29日、「幕府、大将軍の上洛に役せし福井藩船「黒龍丸」の船員に手当を給す。小倉藩、征長軍の先鋒を命ぜられたるを以て、支藩「千束安志」の兵を本藩兵の付属と為すべきや否やを幕府に候す。批して之を許す」。
★慶應1年12月29日、「征夷大将軍徳川家茂、書を仏国皇帝ナポレオン三世に贈り、駐剳全権公使ロッシュの製鉄器械購入・語学研究・三兵伝習及留学生等に尽力せるを謝し、猶自今同人の斡旋を望む意を致す。幕府、若年寄土岐頼之「山城守・沼田藩主」を罷む」。