★元治1年6月3日、「横浜鎖港談判使節池田長発「筑後守」・河津祐邦「伊豆守」・河田煕「相模守」、スエズを発し、上海に向ふ」。

★元治1年6月3日、「政事総裁職松平直克、大将軍徳川家茂に謁し、横浜鎖港断行の急を説き、之に不同意なる要路を罷免して、速に幕議を決すべきを切言す。軍艦奉行勝義邦・老中板倉勝静・同酒井忠績・同井上正直「河内守・浜松藩主」に謁し、鎖港の行ふべからざるを説く」。

★元治1年6月4日、「浪士中村円太「無二・変名野唯人・元福岡藩士」、書を福岡藩同志筑紫衛「義門・変名武藤小次」・同月形洗蔵「詳」・同浅香一作「茂栄」に寄せ、萩藩の大挙東上せんとするを報じ、福岡藩世子黒田慶賛「下野守」の東上、諸有志の奮起を促す」。


★元治1年6月5日、「昧爽、幕府、処士古高俊太郎「正順・変名湯浅喜右衛門・近江人・贈正五位」を京都四条に捕へ、兵器及同志間往復文書を押収し、其の京都守護職松平容保等を黜け、廷議を一変せんとするを偵知す。俊太郎、七月十九日刑死す。仍て是夜、京都守護職及所司代麾下の兵並に新撰組士、洛中を戒厳し、三条小橋西旅舎池田屋及西国屋を襲ふ。浪士宮部鼎蔵「増実・元熊本藩士・贈正四位」・同松田重助「範義・元熊本藩士・贈従四位」・同北添佶摩「正佶・元高知藩士・贈従四位」・同望月亀弥太「義澄・元高知藩士・贈従四位」・同野老山吾吉郎「輝朗・元高知藩士・贈従五位」・同石川潤次郎「真義・元高知藩士・贈正五位」・同藤崎八郎「誠輝・元高知藩士・贈従五位」・萩藩士吉田稔麿「秀実・贈従四位」・同杉山松助「律義・贈従四位」等、之と戦ひ、或は闘死し、或は屠腹し、其他捕縛せらる者二十余人に上る。又是夜以後、萩藩士山田虎之助「彪・贈従五位」・同内山太郎右衛門「直一・贈従五位」・浪士大高又次郎「重秋・元林田藩士・贈従五位」等洛中各所に捕斬せらるる者多し。萩藩士桂小五郎「孝允・後木戸準一郎」・浪士淵上郁太郎「祐広・元久留米藩士」身を以て難を遁る」。

 

★元治1年6月10日、「海陸備向掛手付雇佐久間修理「啓・象山・松代藩士」、常陸太守晃親王「山階宮」に謁し、時事意見を言上す。爾後屡此事あり」。

★元治1年6月10日、「会津藩士柴司、新撰組と共に浪士捜捕に従ひ、洛東曙亭に於て、誤て高知藩士麻田時太郎を刺す。時太郎、会津藩の慰問を斥けて自殺す「十一日」。司、亦両藩の交誼を破らんことを憂ひ、屠腹し「十二日」事已む」。

★元治1年6月14日、「萩藩主毛利慶親、京都池田屋の変報に接し、萩藩家老益田右衛門介に上京を、萩藩士佐久間左兵衛・同竹内正兵衛に家老福原越後の江戸行に随行を命ず。明日、藩士来島又兵衛「変名森鬼太郎」遊撃隊を率いて山口を先発す。次日、越後、亦途に上る」。

★元治1年6月14日、「鹿児島藩家老小松帯刀「清廉」・同鹿児島藩士西郷吉之助「隆永・後隆盛・変名大島三左衛門」各書を在藩の大久保一蔵「利済」に寄せて京都の近状を報じ、萩藩激昂暴発の形勢あるに鑑み、対策を講ずべきを言ふ」。

★元治1年6月15日、「京都町奉行、諸藩士及浮浪の輩を止宿せしむるを申ねて厳禁す。尋で17日、幕府、浪士古高俊太郎・宮部鼎蔵等の余党の緝捕を令す。幕府、関東八州代官に命じて、浮浪の徒を追捕せしむ。幕府、壬生藩主鳥居忠宝の大坂加番を免じ、浮浪を追捕せしむ」。

★元治1年6月15日、「萩藩主毛利慶親及元権中納言三条実美等、各東上諸隊に謁を聴す。明日、浪士真木保臣・萩藩士久坂義助「通武」総管と為り、忠勇・集義・八幡・義勇・宣徳・尚義等諸隊を指揮し、周防国・三田尻を解纜し、次日、上関に至り、軍議を行ひて東航す」。

★元治1年6月18日、「萩藩士井上聞多「馨」・同伊藤俊輔「博文」滞英中、下関及鹿児島に於る外艦との葛藤を聞き、郷国の前途を憂へ、急遽横浜に帰著し、英・仏・米・蘭四国連合艦隊下関砲撃之危機迫れるを知り、英国特派全権公使オールコック等を訪ふ。ついで、和平解決の為、藩主毛利慶親を説かんことを告ぐ。オールコック等、之を容れ、是日、慶親に与ふる書を託し、英艦バロッサ号に、同コーモラント号を付し、二人を藩地に護送せしむ」。