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★慶應2年3月8日、「長門府中藩士三吉慎蔵「時治」帰藩し、藩主毛利元周「左京」に謁して京都の事情を復命す。尋で「19日」元周、慎蔵の伏見に於ける遭難の際、其節を遂げたるを賞し禄を加ふ」。
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★慶應2年3月13日、「老中松井康直・水野忠精、若年寄田沼意尊等、英国特派全権公使パークスと康直邸に於て応接し、税則改正の事を談判す。沼田藩世子土岐頼知、英国特派全権公使パークスと西久保茸手町「江戸」に行き逢ひ、従士、暴行す。15日パークス、幕府に抗議す」。
#14日

#15日
★慶應2年3月15日、「浪士中岡慎太郎「道正」書を長門府中藩士三吉慎蔵に寄せ、薩長協同の為に力を竭さんことを勧む。
米国代理公使ポートマン、幕府に牒し、本国政府に報告の為、天皇及大将軍の姓名並に官位を問ひ、且其訳文及説明書の添付を求む」。
★慶應2年3月15日、「幕府、元外国奉行池田長発「筑後守」の罪を宥す。幕府、福岡・熊本・久留米・佐賀・鹿児島の五藩大坂留守居を召し、申ねて目付小林甚六郎「政富」の太宰府派遣を達す。萩藩支族吉川経幹、宗藩士坪井竹槌の軍監として来邑せるを以て、之を引見す」。

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★慶應2年3月20日、「鹿児島藩、英国より汽船ウイルウエルフを購入し、大極丸と命名す。征夷大将軍徳川家茂、講武所「大坂玉造」に赴きて、陸軍・講武所両奉行支配銃隊の練兵を覧る」。

#21日

★慶應2年3月21日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、税則改正商議の為、勘定奉行小栗忠順を横浜に遣さんことを請ふ。二十三日、幕府忠順の病むを答ふ。晦日、パークス、再び牒して其代人を求む。四月五日幕府、忠順癒ゆる以て同月七日出張せしむべきを告ぐ」。

★慶應2年3月21日、「英国商人グラバー、横浜より鹿児島に赴くの途次、下関に寄港す。是日、萩藩士谷潜蔵「高杉春風」林宇一「伊藤博文」薩英会商参加の為、之に便乗して長崎に至り、鹿児島藩士市来六左衛門に会し、使命を致し、宇一は帰藩し、潜蔵は上海に赴くに決す」。

#22日

#23日

★慶應2年3月23日、「鹿児島藩士肥後直次郎、元権中納言三条実美等の内旨を帯び、太宰府を発して帰藩の途に上る。幕府、令して日光奉幣使街道沿道の幕府領・私領・寺社領の助郷を止む。老中小笠原長行、広島藩主浅野茂長に命じて、家老野村帯刀に謹慎せしむ」。

#24日

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★慶應2年3月27日、「前福井藩主松平慶永、書を前宇和島藩主伊達宗城に復し、萩藩処置に関する朝廷・幕府の内情を告げ、藩士瓜生三寅の雇聘・製糸業伝習の希望等に関して注意する所あり。又書を前高知藩主山内豊信に寄せ、同藩家老の広島出張に嘱望する意を陳ず」。
★慶應2年3月27日、「鹿児島藩、藩士吉原重俊・同江夏蘇助・同湯池定基・同仁禮景範・同種子島敬輔を留学生として米国に派遣す」
#28日

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★慶應2年3月29日、「徳山藩主毛利元蕃「淡路」藩士本城静衛を萩藩支族吉川経幹に遣し、広島藩を経由して幕府に呈すべき歎願書等に関して商議せしむ。是日、経幹、之を引見す。鹿児島藩士黒田了介「清隆」京都より広島に抵る」。
#30日
★慶應2年3月30日、「鹿児島藩士堀平右衛門、太宰府に抵り、浪士土方楠左衛門「久元・元高知藩士・三条実美従士」を訪ひ、同藩士黒田嘉右衛門「清綱」の近く来るべきを告ぐ。萩藩士小田村素太郎等、老中小笠原長行と広島藩との交渉の内情を藩府に報じ、対策意見を述ぶ」。

★慶應2年3月是月、「所司代松平定敬、臨時所用多く、且物価騰貴の故を以て、京都町奉行滝川元以「讃岐守」の付武士と交渉する為、屡々御台所に参入せしむべき旨を禀す。幕府典医松本良順・寄合大久保忠寛「一翁」 各万国公法を大将軍の覧に供す」。