#1日

★慶應2年1月1日、「萩藩使者宍戸璣及小田村素太郎・赤川又太郎、各広島より書を藩要路山田宇右衛門・広沢真臣・中村誠一等に致し、曩日の藩命に答へて、幕府の追討軍を撤せず家老の上坂を命ぜば、帰藩せず決死上国に出で初志の貫徹に竭すべきことを陳べ、更に進止を請ふ」
★慶應2年1月1日、「福井藩士中根雪江「師質」、鹿児島藩家老小松帯刀「清廉」を京都同藩邸に訪ひ、国事に関する意見を問ふ」。
★慶應2年1月1日、「二本松藩主丹羽長国「左京大夫」京都を発し、帰藩の途に就く。尋で「九日」江戸留守居小沢長右衛門をして江戸藩邸に入らず、藩地に直行せんことを幕府に禀し、江戸通過の際、使者を以て祗候の礼を執らん事を請はしむ。聴す」。
★慶應2年1月1日、「四方拝、出御なし。征夷大将軍徳川家茂、大坂城に在り。在坂の諸侯・有司登城し、正を賀す。明日、亦同じ。在府の諸侯・有司、亦江戸城に登り、正を賀すこと同じ」。

#2日

★慶應2年1月2日、「米国代理公使ポートマン、江戸の商伊勢屋与兵衛の蚕卵紙代費消を示談を以て解決せんとするを幕府に告げ、之を出獄せしめんことを求む。尋で、幕府、与兵衛を釈放す」。
★慶應2年1月2日、「鹿児島藩士大久保一蔵「利通」・同吉井幸輔「友実」・同内田仲之助「政風」福井藩士中根雪江を福井藩京都邸に訪ひ、時事を談じ、且禁裏守衛総督徳川慶喜の萩藩処置意見を問ふ」。
★慶應2年1月2日、「福井藩士中根雪江、禁裏守衛総督徳川慶喜「権中納言・一橋家主」の家士梅沢孫太郎「守義」に頼りて書を慶喜に呈し、萩藩再征を非とし、幕政の改革・萩藩処分に関し、建言す」。

★慶應2年1月2日、「萩藩家老浦靱負「元襄」、家士芥川十右衛門を山口に遣して、元家士赤祢武人「是一」の帰邑を上申せざりし事を宗藩に弁疏せしむ。明日、藩吏、武人を護送して山口に帰る」。
★慶應2年1月2日、「征夷大将軍徳川家茂、賀正の為、高家中条信礼を京都に、年頭代参の為、同横瀬貞篤を神宮に、同畠山義勇を日光東照宮に遣す。幕府、米沢藩主上杉斉憲・盛岡藩主南部利剛・淀藩主稲葉正邦「民部大輔」をして春期京都宿衛に当らしむる事を禀す」。

#3日

★慶應2年1月3日、「萩藩士木梨彦右衛門「貞幹・後椙原治人」広島より書を同藩士広沢藤右衛門に寄せ、大目付永井尚志帰坂後の幕議に関して広島藩士植田乙次郎より聞く所を報じ、幕府は持久の策を講ずるものの如きを以て、藩地に於ても対策を怠るべからざるを論ず。
★慶應2年1月3日、「広島藩士植田乙次郎・寺尾生十郎、書を萩藩支族吉川経幹「監物後駿河守後岩国藩主」・用人目加田喜助・同塩谷鼎助「処」・同大草終吉「孝暢」に致し去冬彦根藩士と応接の実否に関する詳報を求む。尋で5日喜助等書を復し応接の請を拒絶し旨を答ふ」。
★慶應2年1月3日、「京都守護職松平容保「肥後守・会津藩主」・所司代松平定敬「越中守・桑名藩主」・大目付永井尚志「主水正」等、禁裏守衛総督徳川慶喜の館に会して、萩藩の処置を評議す」。

#4日

★慶應2年1月4日、「萩藩士木戸貫治「孝允・後準一郎」・三好軍太郎「重臣・変名会田春輔」・品川弥二郎・早川渡、浪士田中顕助等、鹿児島藩士黒田清隆と倶に大坂に至り、明日、伏見に至る。鹿児島藩士西郷吉之助・村田新八等、之を迎へて京都鹿児島藩邸「二本松」に入る」
★慶應2年1月4日、「萩藩使者宍戸備後助、広島より書を藩要路山田宇右衛門等に寄せ、藩内一致武備を張り、幕府をして乗ずるの隙なからしむべきを陳じ、防長士民合議書の草稿を送り、之を上梓して内外に配布せんことを求む。尋で、同藩之を頒布す」。
★慶應2年1月4日、「萩藩、支族吉川経幹の家老吉川中書「良休」に広島に於ける大小目付との応接書写を交付し、且遊撃隊を小瀬川口防禦に派遣し、家老宍戸備前「親基」をして之を指揮せしむべきを経幹に伝へしむ」。
★慶應2年1月4日、「萩藩、藩士伊藤春輔「博恂・俊輔・後博文」に命じて姓名を林宇一に改めしむ。26日、井上聞多「惟精・後馨」を同じく高田春太郎と改めしむ。萩藩支族吉川経幹、大組頭桂主馬をして、兵を率いて多田「周防国玖珂郡」に出陣し、称名院に屯せしむ」。
★慶應2年1月4日、「福井藩士中根雪江、在坂中の老中小笠原長行「壱岐守・唐津藩世子」に謁し、萩藩再征の不可を切言し、速に中止すべきを建白す。雪江、又麾下士大久保忠寛を訪ふ。忠寛、上坂以来諮問に応じて萩藩処分及鹿児島藩対策を老中等に進言せし始末を語る」。
★慶應2年1月4日、「幕府、各地在勤吏員の江戸往返、各地祇役等に関する手当給与規則を改む。禁裏守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保・水戸藩主徳川慶篤「権中納言」弟松平昭徳「後昭武・民部大輔」等、参内、正を賀す」。

#5日

 

#6日

★慶應2年1月6日、「会津藩在府家老上田学太輔・梶原悌彦、連署して書を同在京家老萱野権兵衛・同西郷勇左衛門「近潔」に致し、幕府よりの借用金十万両返済に関する措置を報ず。蘭国総領事ファン・ポルスブルック、仮公使館増築工事に速に着手せんことを幕府に請ふ」。
★慶應2年1月6日、「米国代理公使ポートマン、幕府に牒し、横須賀附近の借地を再願す。尋で「2月朔日」幕府、之を拒絶す。
★慶應2年1月6日、京都守護職松平容保、書を岡山藩主池田茂政「備前守」に復し、水戸藩の内訌に関して憂慮する情を陳じ、仍ほ周旋すべき旨を答ふ」。
★慶應2年1月6日、「常陸太守晃親王「山階宮」 書を前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」に復し、仁和寺門主純仁法親王「後小松宮彰仁親王」の還俗、伏見宮復帰の不可能を告げ、且我より進んで互市貿易を盛にし、国威を海外に発揚すべきを答ふ」。
★慶應2年1月5日、「老中井上正直「河内守・浜松藩主」・若年寄立花種恭「出雲守・下手渡藩主」大坂に至る。広島藩士植田乙次郎・同寺尾生十郎、書を萩藩士小田村素太郎・同赤川又太郎に復し、大目付永井尚志広島再来説の無根なるを答ふ」。
★慶應2年1月5日、「幕府、前名古屋藩主徳川茂栄「玄同」の征長後備を免じて江戸城留守心得を命じ、速に出府せしむ。また、前藩主慶勝「前権大納言」を征長後備と為し、大将軍進発せば速に上坂し、続いで出陣せしめ、且付家老成瀬正肥「隼人正」をして率兵速に上坂せしむ」

#7日

★慶應2年1月7日、「英国特派全権公使パークス、幕府に牒し、外務大臣クラレンドンの答書「慶応元年十一月三日付」を致し、遣外使節柴田剛中の来訪を歓迎せるを告げ、且剛中の動静を報ず。二十三日、幕府、書を復して其厚遇を謝し、其旨を本国政府に伝へんことを求む」。

★慶應2年1月7日、「蘭国総領事ファン・ポルスブルック、幕府に牒し、長崎在留の米国商人某の英国廃艦を購入修理し、イーグル「後回天丸」と命名して幕府に売卻せんとするとの風説を報じ、警告す。又箱館に駐在すべき英国領事ガワーに蘭国領事兼摂を命ぜしことを通告す」。
★慶應2年1月7日、「英国公使館通弁官シーボルト、長崎駐在領事ガワーの横浜来著を幕府に報じ、速に箱館奉行及長崎奉行支配組頭と会し、箱館領事館建築及長崎船渠建造に関し、商議せん事を求む。尋で幕府、箱館奉行並新藤鉊蔵を遣し領事館建築に関する約定書に調印せしむ」。
★慶應2年1月7日、「老中板倉勝静「伊賀守・備中松山藩主」・同小笠原長行、大坂より上京す。明日以降、禁裏守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬等と日々慶喜の館に会し、萩藩処置を議す。尋で「10日」勝静・長行、議整はずして大坂に帰る」。
★、慶應2年1月7日、「幕府、峰山藩主京極高富「主膳正」を若年寄と為し、大将軍進発に随従を命じ、軍艦奉行石野則常「筑前守」を外国奉行と為す。 米沢藩世子上杉茂憲「式部大輔」京都に至る」。
★慶應2年1月7日、「征夷大将軍徳川家茂、扈従の講武所頭取並・差図役頭取・広島出張の騎兵差図役頭取等を召し、勝土器を賜ふ。又勘定奉行小栗政寧・大坂町奉行兼勘定奉行井上義斐・大坂町奉行松平信敏・大目付神保長興・目付小笠原広業等を召して事を議し、畢て酒を賜ふ」

#8日

★慶應2年1月8日、「開成所教授方手伝陸軍兵書取調出役原田吾一「一道・岡山藩支藩士」蘭国船に搭じ、横浜に帰著す。尋で「十三日」江戸に入る。「十五日、外国奉行吾一を陸軍奉行に引渡す。」」。
★慶應2年1月8日、「 萩藩要路山田宇右衛門・中村誠一等、書を広島に在る藩士小田村素太郎・同赤川又太郎等に復して藩議を報じ、使者宍戸備後助等を死地に投ずるに忍びざれば、幕府が追討軍を撤せずして上坂を命ぜば、之に応ずべからざるを告げ、特に進退を慎重にせしむ」
★慶應2年1月8日、「和歌山藩士栗山俊平・宮川六郎、書を藩主徳川茂承に上り、征長総督を命ぜられたるを以て、長防両国の中一国を削り、毛利父子を江戸に召致して退隠を命じ、且其家族を江戸に移して諸侯家族留府の旧制に復する先容と為し、以て幕威を恢復すべきを陳ぶ」。
★慶應2年1月8日、「前名古屋藩主徳川茂栄、大坂城に登り、大将軍徳川家茂に謁す。家茂 江戸城留守を委任す。尋で「十一日」茂栄、大坂を発し、京都を経て帰藩す「十六日」」。
★慶應2年1月8日、「敦賀藩、在京藩兵の寡少、且領邑の積雪深く、武器の運搬困難なるを以て、幕府に洞ケ峠「山城国綴喜郡」警衛就役の猶予を請ふ。松前藩主松前崇広「伊豆」藩地に帰り、謹慎す。尋で、幕府、其禀請を許し、再び命じて箱館を警衛せしむ」。

 

#9日

★慶應2年1月9日、「萩藩主毛利敬親、元治元年国事に殪れたる藩士の祭祀に資を給す。是より先「二日」萩藩使者宍戸備後助等、陳情書を広島藩に致して、暗に頃日幕府の兵を封彊に集中するを難じ、萩藩の為に周旋せんことを求む。

#10日

★慶應2年1月10日、「広島藩江戸「外桜田」邸、火く。蘭国総領事ファン・ポルスブルック、幕府に牒し、長崎精得館雇教師ボードイン「蘭医]の帰国せんとするを以て、元蘭国海軍軍医マンスフェルト「当時上海在留」を其後任に招聘せんことを勧む」。
★慶應2年1月10日、「浪士坂本龍馬「直柔・元高知藩士」・同池内蔵太「定勝・変名細川左馬介」・長門府中藩士三吉慎蔵「時治」等、下関を発し、上京の途に就く。尋で「十八日」鹿児島藩大坂邸に入り、次日、伏見に到る」。
★慶應2年1月10日、「幕府、小銭欠乏せるを以て、令して真鍮銭・文久銭・銅小銭を歩増通用せしむ。老中水野忠精「和泉守・山形藩主」・同松井康直「周防守・棚倉藩主」等、英国特派全権公使パークスと康直邸に会見し、税則改正を商議す。十二日亦同じ」。

#11日

★慶應2年1月11日、「前福井藩主松平慶永、書を前関白近衛忠煕に致し、所猟の鶴を天覧に供せんことを請ふ。又書を寄合大久保忠寛に致して、大目付永井尚志帰坂後の萩藩処置に関する幕議を開かんことを求め、且時事に関する意見を告ぐ」。

★慶應2年1月11日、「幕府、老中板倉勝静に白河藩邸「西丸下」を、同小笠原長行に敦賀藩「大名小路」邸を、若年寄稲葉正巳「兵部少輔・前館山藩主」に沼田藩邸「鍛治橋門内」を賜ふ」。
★慶應2年1月11日、「征夷大将軍徳川家茂、外国奉行菊池隆吉「伊予守」・同星野千之「備中守」・同大久保忠恒「筑後守」に全権を委任し、白耳義国使節ト・キントと折衝、条約締結の事に当らしむ。幕府、歩兵頭合原義直「左衛門尉」を目付と為す」。
★慶應2年1月11日、「先侍従千種有任、書を関白二条斉敬に呈し、祖母老齢且病めるを以て父有文の入洛を許し、看護せしめられんことを請ふ。盛岡藩主南部利剛、病未だ癒えざるを以て一門南部監物をして代りて、春季京都警衛に復せしめんことを請ふ。幕府、特に之を聴す」。

#12日

★慶應2年1月12日、「賀茂奏事始、出御。町奉行、府内の盗賊取締の事を令す。 萩藩士山崎小三郎、英国留学中、倫敦に客死す」。

#13日

★慶應2年1月13日、「 是より先「慶応元年九月二十日及同十二月二十八日」幕府、曩に遣欧使節池田長発等に同行せし蘭国人ブレックマン「当時仏公使館員」の会計取扱に不正ありたるを以て、仏・蘭両国使臣に交渉す。
★慶應2年1月13日、「前宇和島藩主伊達宗城「伊予守」、書を熊本藩主細川慶順「越中守」弟長岡良之助「護美」に寄せ、時事に関する所見を陳ぶ。高知藩、開成館を創立し、海事諸衛を教授するを以て、藩士子弟等の入学を令す。二月九日、藩主山内豊範「土佐守」同館に臨む」
★慶應2年1月13日、「征長先鋒総督徳川茂承、萩藩の処置如何は海内治乱の機、幕府興廃の境なるを以て、同藩の命に服せずんば速に進撃征討すべきを幕府に建議す。幕府、長崎奉行の役料及役金を改む。大目付戸川忠愛、京都を発して大坂に下り、大将軍徳川家茂に謁す」。

#14日

★慶應2年1月14日、「福井藩士中根雪江、大目付永井尚志を京都の寓舎に訪ひ、在京在坂の幕府有司間に萩藩処置に関する所見齟齬すと聞くも、其孰れに決すべきやを問ふ。尚志、大坂の議に決すべしと答ふ」。
★慶應2年1月14日、「海援隊士上杉宗次郎「近藤昶次郎・贈正五位」竊に資を萩藩に獲て長崎を発し、外遊せんとす。同隊士沢村総之丞「延世・変名関雄之助」等、之を知り、其社中盟約に背けるを難詰し、自刃せしむ」。本件について、いずれ検討したいと思います。
#15日
★慶應2年1月15日、「是より先、英国人のアイヌ人墓地盗掘事件に関し、箱館駐在領事ヴァイス、犯人3名の処罰・賠償等を箱館奉行小出秀実に提議す。秀実、盗掘骸骨の返還・犯人の厳罰・償金の増額を要求し、交渉決せず。
★慶應2年1月15日、「福井藩士中根雪江、麾下士黒川嘉兵衛「雅敬」を禁裏守衛総督徳川慶喜の京都旅舎に訪ふ。嘉兵衛、萩藩処置に関し、慶喜と老中との意見相違せるを告ぐ。尋で「十八日」雪江、下坂し、明日、寄合大久保忠寛を訪ひ、復た同一の内情を聴く」。
#16日

#17日

#18日

★慶應2年1月18日、「萩藩士小田村素太郎・同藩士赤川又太郎「共に在芸」書を広島藩士植田乙次郎・同寺尾生十郎に寄せ、申ねて大目付永井尚志等帰坂後の幕情を問ふ。乙次郎等、書を復して之に答ふ」」。
★慶應2年1月18日、「左近衛権大将兼左馬寮御監近衛忠房辞す。従一位に叙し、随身・兵仗を賜ふ。権大納言一条実良をして左近衛権大将を兼ねしめ、左馬寮御監と為す。 幕府、大番頭稲垣太清に大坂定番を命じ、寄合杉浦勝静を箱館奉行と為し、外国奉行栗本鯤を罷む」。

#19日

★慶應2年1月19日、「是夜、浪士坂本龍馬、長門府中藩士三吉慎蔵を伏見寺田屋に留め、浪士池内蔵太等と密に入京し、鹿児島藩邸「二本松」に入る」。
★慶應2年1月19日、「老中板倉勝静・同小笠原長行、再び大坂より上京す。夜、京都守護職松平容保・所司代松平定敬等と共に禁裏守衛総督徳川慶喜の旅館に会し、萩藩処分の事を議す」。
★慶應2年1月19日、「幕府、仏国人フリュリー・エラール「巴里の銀行家」に依嘱し、仏国駐在領事の事務を取扱はしむ」。
★慶應2年1月19日、「鶴庖丁・舞楽御覧。特に在京の諸侯の陪観を允す。幕府、有司に申令して、内請・贈遺を禁じ、特に倹素を励行せしむ。 幕府、令して大坂市内の警戒を厳にせしめ、劇場等に無法に立入ることを取締らしむ」。

#20日

★慶應2年1月20日、「幕府、櫛羅藩の大坂警衛を罷め、赤穂藩を以て之に代ふ。川越藩、使者を目付小俣景行「稲太郎・後伊勢守・後景徳」に遣して藩情を陳じ、申ねて常野浪士の保監を罷めんことを内請す」。
★慶應2年1月20日、「正三位大原重徳、書を内大臣近衛忠房に致し、幕府の萩藩処置を奏請するも、直に勅裁を下さず、先づ既往の違勅の罪を正すべきことを入説す」。

#21日

★慶應2年1月21日、「萩藩士木戸貫治、屡々鹿児島藩家老小松帯刀・同藩士西郷吉之助等と会談するも、未だ薩長合従の議整はず。会々浪士坂本龍馬、入京して其間に斡旋す。是日、貫治・帯刀・吉之助及龍馬、意見を交換し、遂に合従の盟約六ヶ条を結ぶ」。いわゆる薩長同盟。
★慶應2年1月21日、「幕府、申ねて令し、本年五月以降は幕府の検印なき生糸の売買を禁ず」。

#22日

★慶應2年1月22日、「弾正尹朝彦親王・常陸太守晃親王・関白二条斉敬・右大臣徳大寺公純・内大臣近衛忠房・権大納言一条実良・同九条道孝及議奏・武家伝奏等、参内す。禁裏守衛総督徳川慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬・老中板倉勝静・同小笠原長行、亦参朝す。
★慶應2年1月22日、「萩藩支族吉川経幹、家臣長新兵衛「裕臣・変名長谷太郎」同大草終吉「変名井上徳之助」を潜に大坂に遣し上国の動静を探索せしむ。明日新兵衛等海路、途に上り鹿児島藩大坂邸に入る。尋で京都より下れる薩摩藩士吉井幸輔「友実」・税所長蔵等と会す」。
★慶應2年1月22日、「萩藩使者宍戸備後助及藩士小田村素太郎・同赤川又太郎等、書を藩要路山田宇右衛門・同広沢藤右衛門等に致して猶広島に滞留するの有利なる所以を縷陳し、指揮を請ふ。幕府に令して、京都内外を厳戒し洛中に於ける発砲を禁じ特に大将軍の帰府を止む」。
★慶應2年1月22日、「鹿児島藩士大久保一蔵・同黒田了介・萩藩士木戸貫治・同品川弥二郎等、京都を発し、各帰藩の途に就く。尋で、一行、鹿児島藩船三邦丸に搭じて大坂を発す」。
#23日
★慶応2年1月23日、「福井藩士中根雪江、鹿児島藩士大久保一蔵を大坂の寓舎に訪ふ。一蔵、萩藩の処置は公議に拠り、至当の条理に従ふべきを告げ、且幕府の寄合勝義邦・同大久保忠寛を登庸如何は人心に影響する所あるを陳ぶ」。
★慶応2年1月23日、「箱館駐在英国領事兼蘭国領事ヴイス、後任ガワーに事務引継をなす」。

★慶応2年1月23日、「浪士坂本龍馬、京都を発して伏見寺田屋に宿る。是夜、伏見奉行の捕吏の為に襲はる。龍馬、長門府中藩士三吉慎蔵と共に拒ぎ闘ひ、身を以て脱る。尋で「二月朔日」龍馬等、京都鹿児島藩邸に入る」。
★慶応2年1月23日、「萩藩士木戸貫治、書を浪士坂本龍馬に寄せて、薩長連盟に関する条項を列記し、之を確認せんことを求む。尋で「二月五日」龍馬、之を確証する旨を其書の紙背に書して返付す」。 
★慶応2年1月23日、「勘定奉行小栗忠順「上野介」・外国奉行菊池隆吉「伊予守」・同星野千之「備中守」・目付滝沢喜太郎「久重」、英国特派全権公使パークスの清国の例に準拠して税則を改定せんことを要求せるを幕府に禀し、我が国情に即し、改正すべきを建議す」。
★慶応2年1月23日、「常陸太守晃親王、書を前福井藩主松平慶永に致して、萩藩処置に関する前日の朝議の状を報ず。幕府、知恩院門主入道尊秀親王に、在住中毎歳米千俵を献ず。幕府、江戸城内下馬所を先規に復す老中板倉勝静・同小笠原長行、京都を発して下坂す」。
#24日
★慶応2年1月24日、「福井藩士中根雪江、大目付永井尚志を訪ふて得たる萩藩処分に関する幕議の事情を、鹿児島藩士大久保一蔵に報ず。蘭国総領事ファン・ポルスブルック、幕府に牒し、申ねて軍艦開陽丸の姉妹艦一艘の建造を同国に委嘱せんことを勧説す」。

★慶応2年1月24日、「福井藩士中根雪江、大目付永井尚志を訪ふて得たる萩藩処分に関する幕議の事情を、鹿児島藩士大久保一蔵に報ず。蘭国総領事ファン・ポルスブルック、幕府に牒し、申ねて軍艦開陽丸の姉妹艦一艘の建造を同国に委嘱せんことを勧説す」。
#25日

 

#30日
★慶応2年1月30日、「鹿児島藩士黒田嘉右衛門「清綱」・浪士田中顕助、京都より太宰府に至り元権中納言三条実美等に謁し、薩長連盟の成立を告げ、上国の形勢を報ず」。