還暦頃から新たに加わった趣味に登山があります
昔から高いところが好きだったという癖(へき)があり機会があれば山登りをしていましたが、毎月数回の地元里山歩きや定期的な登山遠征をするようになったのはフルタイムの仕事を辞めてからであります
北は利尻岳から南の屋久島宮之浦岳、富士山に穂高と有名どころは押さえてきたので、今後は日本地図の空白地帯を埋める旅と、死なない程度にバリエーションルートを楽しんでいるうちに人生が終わるのではないかと思っています
山の上の教会にあるオルガン
何ともポエミーなシチュエーションですが、多くの山岳には避難小屋はあっても教会はなく、ましてやオルガンが建造された空間はありません
ジョージアのゲルゲティ三位一体教会
「天国に一番近い教会」残念ながらオルガンは設置されていません
イタリアドロミテのサン・ロメディオ聖堂やスイスのエンゲルベルク修道院といった山地オルガンがありますが、特筆モノの高地オルガンといえばコレ
標高1808mに立つフランスのデ・ネージュ教会のオルガン
何ともユニークな造形であります
構造的には全く違うものですが、自然の景観の中で柱状節理がオルガンパイプと似ているとして、アルメニアガルニ渓谷の「玄武岩のオルガン」、イギリスジャイアンツ・コーズウェイの「巨人のオルガン」なんてモノが海外にあります
ところがところが我が日本にも、それも残雪期に近くまで行ったことのある上高地、岳沢にはこんな見事なパイプタワーが存在するのでありました
小屋から500m沢を登ると頭上に広がる180mを超える六角柱群
3年前にお世話になった岳沢小屋のスタッフブログより
いつか前穂にチャレンジする時には何としても見に行く事にします(決定)
あと山絡みのオルガンネタとして有名なのは、ヤマハの創業者・山葉寅楠がリードオルガン国産第1号機を完成させて浜松から東京へ天秤棒を担いで運んだという「箱根越え」の逸話
この山葉寅楠という人物、浜松市やヤマハ社内では明治時代の立身出世を体現した偉人として神格化されていますが、なかなかの山師であったようで、幼少期から青年期にかけてやんちゃなエピソードが数多く残されています
浜松に流れ着くまで事業に失敗したり妻を置いて夜逃げをするなどダメダメな人生だったようですが、たまたま修理を請け負った舶来オルガンのからくりを理解できた所から運命が変わったようです
「こんなものオレでも作れるわ」と手先の器用さで製作してみたものの、音楽的素養が無かったために鍵盤楽器のキモである音律が出鱈目なので地元音楽教師からダメ出しを食らいます
にもかかわらず「本物の音楽家なら理解してくれるはず」と思い込んで東京の音楽取調掛(今の芸大)に持ち込みを決行するのが「箱根越え」なのです(苦笑)
ヤマハ本社の銅像下にはめ込まれていたレリーフ
いやいや、自信過剰にも程があると言わねばなりません
いくら魂を込めて作った物とは言え、楽器として使用に耐えない物との自覚が無いのが大問題です
当然、音楽取調掛でも酷評を食らいます
山葉寅楠の立派なところは、ここで初めて楽器にとって大事な事は何かという事を学んだことです
って、気が付くのが遅くないですか(笑)
音楽理論というものを身に着けて作り直したオルガンを携え、寅楠は2度目の「箱根超え」をします
結果は実を結んで、お墨付きを貰って安価に制作された国産リードオルガンは大ブレイク、そこらから大正・昭和に繋がる日本楽器の栄光が始まります
って、気が付くのが遅いですよね(2度目)
とは言え、推定50㎏は優に超えるであろう木製オルガンを河合喜三郎と天秤棒で担いで東京まで持ち運んだ根性には恐れ入ります
特に述べ250㎞の東海道のうち箱根八里、32キロは当時相当の悪路であったと思われます
当時はまだ箱根の山を越える鉄道が開通しておらず、標高848mの箱根峠は「天下の嶮」と歌われ、今でも全然楽な登山道ではありません
当時の石畳みの旧街道を河合と共に重いオルガンを担いで2度も徒歩で踏破(しかも往復!)する熱量を持っていたことには感慨を禁じえません
山を経験すると荷物の重さに敏感になりますが、当時のプロの篭屋でも閉口したであろう重労働の長旅を素人二人がやり遂げたのは、単なる金儲けの野心だけでは説明がつかない話です
相方となった浜松の飾り職人の河合喜三郎は私財を突っ込んで支援した手前、後には引けなくなった事情があるにせよこちらにも音楽的素養があった訳でも無く、このような苦行を共にしたのは寅楠の人柄に惹かれたからではないでしょうか
大言壮語で熱弁を振るい夢を語る寅楠の横顔を見ながら「この山師に賭けるのも良いかな」と思った喜三郎の気持ちにグッときます
その後の日本楽器(現ヤマハ)の歴史は決して平坦ではありませんでしたが、世界一の楽器会社に成長し音楽業界に多大な影響を与えました
山葉と河合とのパートナー関係は、寅楠の長男が喜三郎の養子になっていることからも深い絆で結ばれていたことが偲ばれます
山葉寅楠のモットー、「ピアノを作るには、まず人間を造らなければならない」の言葉の裏には、河合喜三郎との厚い信頼関係無しには実現できなかった自分の思いが込められています
企業マーケティングの問題でリードオルガン→エレクトーン→チャーチオルガンの流れが頓挫したことのは残念ですが(泣)
ヤマハイノベーションロードに展示してあったE70
最後のアナログ音源によるチャーチ系オルガンでした




