しるこサンドの日記

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「感情論」ということばを一度は耳にしたことがあるだろう。通俗的には、感情に流され、理性的な思考を働かせることができない状態に陥り、発話に論理性が伴われない状態のこと、ないしはその発話そのもののことである。
こういった感情論を批判するとき、「感情論ではなく、論理的に考えて話をしなさい。」とよくいわれるだろう。これはどういう意味だろうか。感情が一体何であろうかという議論はさておき、文字通り感情のこもったものである「感情論」に対して、「感情論ではなく」というと、論理的に話すことが「感情のないもの」であるとか、機械的で冷酷なものとして受け取られがちであるが、これは大きな誤解である。感情論に問題があるのは「感情が伴っているため」ではない。したがって、論理的に話すとき、そこに感情が伴っていたとしても問題にはならない。むしろ「感情を伴なわない発言」というのは心を持つ人間である以上難しいだろう。では何が問題であるのか。
それはことばの論理性である。論理とはいわば(やや大雑把な表現にはなるが)「理屈」である。(掘り下げていくと切りがないのは承知の上ではあるが)理屈とは原理ないしは根拠から結論が導き出される体系により「証明」の成り立っている様である。
したがって、感情論が論理的でない、といわれる所以は、結論としての感情論に合理的な根拠が伴っていないためである。少々難解な表現になったが、誤解を恐れず端的にいえば、「みんなの納得のいく理屈を示せない」せいなのである。
ここで改めて私のつけたこの文章のタイトルについて触れたい。「感情のみに従って行為する人間の行為には感情がない」とはどういった意味なのか。感情従って行為しているのに感情がないなどというのはいささか変である。噛み砕いていこう。
「感情のみに従って行為する人間の行為」とは、一例として、先に挙げた「感情論」のことである。では言い換えてみよう。「感情論には感情がない」となる。未だに違和感が残る。それは「感情がない」ということばの意味するところが不確定なせいであろう。
ここでいう「感情がない」とは、「感情が伴わない」という意味ではない。行為そのものに関して人間的感情が感じられないということである。例えば、(やや相応しくない表現になるかもしれないが了承願いたい)一人の殺人犯がいる。殺人を犯した彼は大変情緒的に混乱しているが、やはり「殺人」ときけば非人道的であり、その内容が無残で悲劇的なものであればあるほど機械的狂気に満ちたものとして受け取られるだろう。しかしながら少なからず罪を犯すのには理由がある。彼の殺人の理由として、彼は被害者に日常的に度を超えた嫌がらせを受け、自殺の寸前にまで追いやられており、それを裏付けるように手首には多くの切り傷が残されていて、それを傍観していた人間も周りにはいて、証言さえ取ればそれは疑いようのないものとなる。としよう。
しかしながら彼はそれを立証するだけの理性を既に書いてしまっている。精神的に病んでしまっていた彼に対する嫌悪感を抱いていた傍観者達からはその異常性が強調される証言だけが集められ、手首の傷跡はその異常性の裏付ける要因となってしまう。こうなるとどうであろうか。
正統とまではいかないが、その罪状に関して、彼には殺人を犯すに至るまでの、一定以上の考慮の見込める経緯があり、論理的な説明、つまり罪を犯したという結論に至るまでの根拠と経緯を立証さえできれば一定程度の理解が見込めるはずであるが、それを表沙汰にすることができないことが原因で、私たちは彼に対して、残虐な罪からくる嫌悪と機械的狂気ないしはその非人道性、つまりは「人間的な感情のなさ」を感じ取るのではないだろうか。
このように、その激烈な感情ゆえにとった、論理的な思考を欠いた状態での行動は、事実として感情を伴っていることに反してその非人道性、ないしは感情のなさを際立たせる。したがって、このことは初めに挙げた感情論にも当てはまる。感情論はその感情の激しさゆえに論理性を欠き、むしろ感情をかき消してしまう。「理屈でものをいう人間」は、冷酷であるといった偏見や、人間性がないといった誤解に対して、私は声を大にしていいたい。理屈は、人間的でないわけではない。感情がないわけでもない。逆に理性によって自分の感情を抑え、理屈によって客観的にものを見据え、自分と他者について公平に物事を考える余裕と温かみ、あるいはそこに愛ですらをもってして考えようとすることなのである。むしろ非人間的で冷酷な行為を取り得るのは感情が理性を上回った状態の人間であり、したがって「感情のみに従って行為する人間の行為には感情がない」とすらいえるのである。皮肉にも感情は時に感情を欠く時がある。それを忘れずに生きていきたい。