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逃げる奴はげげぶ、逃げない奴はよく訓練されたげげぶ

僕が本当にしたかった仕事、小説家。

今は趣味でいいから文章が書きたい。そんな気持ちのブログ。

高校生の時から読み始めて一番はまった作家は大槻ケンヂだ。
エッセイから長編、果てはSFから青春、ミステリーにホラーと多彩なジャンルを描く小説家…なのでもあるが、本当に好きなのはミュージシャンとしての(というか、それが本業なのだが…)大槻ケンヂである。

この世の不条理やはかなさを曲にしたら彼は日本一のアーティストだと僕は思っている。

そんな、僕の一番好きな表現者の紹介はここまでにしておいて、本題は、彼の長編小説、グミ・チョコレート・パイン(全3巻)を読み終えた感想を書きだしておきたかったからだ。

お恥ずかしながら、一番好きだ、と公言しておきながら長編小説にはなかなか手を出しあぐねており、サクサクと読みやすいエッセイや短編ばかり読んでいたのである。

それが先日、出会ってしまったのだ。

単行本全三巻。整然と横並びに一冊ずつ並んでいたこれを見た瞬間に僕の体にエレクトリックサンダーが走った。

思わずの衝動買い。

そして買ってからひと月たたないで読了。

あらすじは…

おバカな男子高校生の主人公、クラスメートの女の子がヒロイン。
二人はともに、自分には何かができる、凡庸な周りのクラスメートとは違うんだ。と思い生きている。

そんな高校生の二人にできること、アイデンティティの確立は何か。

映画、音楽、読書、全てにおいて周りとは違う、人気にとらわれず、ひたすらにむさぼるように吸収し、知識をため込んでいくことだった。

ある日、偶然名画座で出会った二人は秘密の気持ちを共有できたことから縁がつながっていく。
知識を披露し合い、議論を交わし、主人公はヒロインに気持ちひかれていくことに気づく。

しかし、ヒロインは女優になる夢を見つけ、学校を辞めてしまう。

そんな彼女に最後まで告白することができないまま、「君に必ず追いついてみせる」なんてライバル宣言をした主人公は数少ない友人と共にノイズバンドを結成し、「自分にできる何か」をみつけようと躍起になる。

死に物狂いで「何か」を探す二人は、気づいてしまったのだ。

「自分には、何もない。五体満足なだけの子供なんだ」と。


そんな中、ヒロインは自分がもっとも忌み嫌っていた「人気アイドル」の青年と恋に落ち、体を重ねる喜びを覚えてしまう。

さらに、ひょんなことからすっぱ抜かれた彼女のゴシップが世間を騒がせることとなり、主人公は…


というのが本作のストーリー。

すごくすごく心当たりがないのに、心当たりがあるような気がする。そんなものすごいエネルギーを感じさせてくれる小説でした。

この小説の一番すごいところは、現実の残酷さをまざまざと見せてくれること。
奇跡とか、運命とかそんな都合のいい話なんかはない。

間抜けなドタバタ騒動が重なり、奇妙な偶然が連続し、二人の間はどうなるのか。結末の最後の一ページまで先が読めない。

この年になって、僕自身が感じている。「誰かが何かを手に入れたから、もう一方の誰かは何かを失っていく」そんな現実がこの小説には描かれているように思えた。

「都合のいい奇跡なんか起きない」
「神様なんかいない」

退廃的なようにも思えるけれど、ひとつの諦めのようだけれども、決して絶望じゃあない。
救いがないってことは、自分自身の力でどうにかするしかない、必要なのは開き直りだけなんだ。なんて楽観的にもなれる、不思議な物語。

恋に、音楽に、映画にと青春に青春を繰り広げる主人公たちの姿は、なんだかよくわからないけれど、何かがやりたかったあの頃の僕にフィードバックされていくような感じがして、ちょっと照れくさいような、懐かしいような気がする内容でした。


あの頃の僕は、結局何かができるわけでもなかった。
今の僕は、普通の人生を普通の幸せを目標にする大人になった。

ただ、ちょっと普通じゃない趣味をもっていて、それがとびきり素敵な財産になっているのは間違いない。

あの頃に何かができると信じて飛び出していき、今でも何かを成し得ることを目指し生きている多くの友人たちを尊敬する。

けれども、ただ尊敬してるだけじゃ悔しいから、僕はそんな飛び出していったみんなに「追いつきましたよ」と自慢できるくらい胸を張れるように今の人生を毎日一生懸命頑張っていきたい。

どうしたらそんな風になれるかはわからない。結局、普通の人生になっても僕の「何かできるはず」病はあの頃のままなのかもしれない。

最近のテレビはマンガ、小説のドラマ化が流行っているようで、(ひょっとしたら随分前からかもしれないが、僕があんまりテレビを見ないせいでついていけていないのはご勘弁…。)その中でも妖怪人間ベムのドラマ化は、子供のころにアニメを見ていたからか懐かしさを感じた。


懐かしさついでに、近所のレンタル屋で妖怪人間ベムのDVDをレンタルしてみるとこれが懐かしい懐かしい。


ちなみに、僕は三人の妖怪人間の紅一点、ベラがお気に入りだ。普段は冷静でいて、はしゃぎまわってトラブルをよく引っ張ってくるベロを叱責したりたしなめたりと冷たい印象が目立つ彼女だが、いざというときには仲間を、知り合った人間を守るために我先に飛び出し戦う様なんかは母性の塊みたいなもんだ。彼女の心の内に秘めた気持ちなんかは、今でいうところのツンデレって奴の走りなのかもしれない。(違うかな…?)


多少話がずれてしまったが、ひとつだけ気になることがあった。


DVDの音声が突然に、ふつりと短い時間ではあるが、消えてしまうのだ。

DVDの傷が原因か!?などと思いはすれど、絵は止まったりもせずにきびきびと動いている。


「とうとう正体をあらわしたね!この――!!」


「ベロ!こいつ――だよっ!!」


こんな感じである。


まあ、平たく言えば彼女は過激な言動が多いわけだ。放送禁止用語の連発だったので台詞が消えてしまうというのも仕方なのない話かもしれない。


一昔前までは子供向け番組でも使われていた言葉が、今では大人の耳に届くのも嫌がられるというのは不思議な感じだ。


「めくら」は「目の見えない人」とか「聾唖」とやたら硬い言葉に置き換えられてしまい、「キチガイ」は「狂人」(これも結構ぎりぎりらいんかもしれない…)「精神分裂症」とかやたら面倒くさい言い回しに変ってしまった。


僕としては、このような言葉というのを気軽に使うことができた昔の方が日本人の心が広かったようにも思える。


人を表す表現の一つとしてあった言葉が「馬鹿にされている」とか「差別だ」なんて些細な気持ちの行き違いで使えなくなったり閉じ込められたりしているように感じ、僕としては日本語の表現が狭くなっているような気がして少し残念な気もする。


まあ、しかし、世の中の流れを変えるなんて大きな事を考えているつもりはないから、ちょっと残念だ、の一言で全てを表現したいと思う。


ただ、妖怪人間のDVDは音声無修正バージョンを出してもらいたいものである。

最近またギターを練習しだした。

たまたま中古屋で見つけたストラトタイプのギターを一本買って数年ぶりに練習。思いのほか指が動かなくなっているあたりで「案外やらないと下手になるもんだな―」なんて思いながら練習するのも非常に面白いもんだ。


ギターを始めたきっかけは中学生のころだった。

当時はちょうどGLAYとかラルクアンシェルなんてバンドが次々とヒット曲を連発して、第3次バンドブームなんて言われていた時期たと思う。


ギターが弾けて、学園祭なんかでバンドをやろうもんなら次の日からはヒーロー扱い。女の子からはキャーキャー騒がれていい気分になっている同級生なんかが近くにいたもんだから、単細胞中学生の僕は一発でギターの練習に取り組みだしたもんだ。


高校生になって初めてバンドを組んで、近所のライブハウスで対バン組ませてもらったりして、学校の同級生たちにチケット配ったりしてそこそこお客さんも集まったもんだから、いよいよもってバンドの面白さに目覚めたりした。


ちなみに、もてたい一心でやりだしたバンド活動だったが、僕の人気は予想通りさっぱりさっぱりな結果。

当時好きだった女の子をライブに読んだりもしたが、ヴォーカルのイケメンとくっついちゃったりして、トホホな状況。二人が仲良く下校してるのをしり目にギター担いで自転車こぎながらトホホって本当に言ってたもんだ。


その後僕の音楽の方向性は180度捻転をを起こして人生の歪みを作ってしまったようにも思える。


まあ、そのなんだ…。僕はへヴィメタルっていう、いわゆる「女の子受けすることは無い」ジャンルの音楽に目覚めてしまったのだ。

ポップな音楽をやって彼女をバンバン作っていく音楽仲間とは裏腹に、一人ゴリゴリの重鋼金属サウンドをやってるもんだから女の子の影も形も見当たらず。さらにトホホな結果を生み出していくのだった。


そもそも生来の捻くれものの僕がなんでもまっとうな道に進むなんて言うこと自体が珍しく、好きな音楽もまた本来の目的であった、「女の子と話がしたい」っていう気持ちからはどこかぶっ飛んだ方向へ場外ホームランのボールよろしく遥か彼方へ消えていったのかもしれない。


今は、楽しく早弾きの練習なんかをしながら、あの時にメタルに会わなかったらモテモテになってたんじゃないかな~なんてどうしようもない後悔をちょっとだけしているのかもしれない。


ああっ。ピロピロ早弾きができるようになりたいのでもうそろそろ練習にいそしみます。それではっ。